5

 なにが起こったのかはじめは分からなかった。感電したようなつよい衝撃があって、わたしは床に倒れていた。腕が動かない。指先が、痺れて震えている。寒いわけではないのにおさまらない。

 暮野さんが咳き込む声がしたけれど、水中にでもいるくらいくぐもって聞こえてくる。

 ゆっくりと深呼吸すると、痺れが多少鎮まった。身を起こそうと手をついた途端に、またばきりと音がした。呻き声が響く。わたしの声だと、また床に伏しながらやっと理解する。

 ばきり、ばきりと鳴る音も、わたしから鳴っているのだと。

「げほっ、げほ、透子、」

 暮野さんが這いずりながら近づいてきた。躊躇うそぶりもなく伸びた手が、わたしの左目、左目を覆う眼帯に触れた。

 剥ぎ取られた瞬間、頬に何かが落ちてきた。指で拭うと涙で、細かいかけらが混じっていた。

「蛹の、殻だよ」

 ぼんやりするわたしに暮野さんが言った。さなぎ、と聞き返した声はひどく弱かった。それで、異様に疲れていると、知った。作業場の床に横たわった体がまったく動かせなくなっており、水の中に沈んでいくような気だるさが、全身にまとわりついていた。

 堪えきれず目を閉じた。意識が途切れがちになる。この一年、どこかで倒れたり、気絶したり、こんなことばかりだ。過ぎ去ったから、今更なのだけれど。

 完全に落ちる前に、ふっと浮くような感覚があった。暮野さんに抱かれて運ばれているのだと、振動と体温でわかったけれど目を開けられなかった。

 暖かい。だるさはそのままだったけれど、氷がゆるやかに溶けるような安心があった。

 身を委ねて、今度こそ眠りに落ちた。

 疲労の中の眠りは、思い出そうとしなかった過去を連れてきた。


 両親曰くしずかで手のかからなかったわたしと違い、純太は夜泣きがひどく世話が大変だったらしい。五歳程度の頃、赤ん坊の弟にかかりきりの母親の姿を、わたしはよく絵に描いた。

 残ってはいないけれど、たしかに描いた。弟の成長はわたしの絵として、それなりに活写されていた。夫婦でわたしの描いた純太や両親の絵を見るのが楽しみだったと、言われたこともあるにはあった。

 わたしが小学生の頃だ。夏休みの絵画コンクールだったか、なんだったか、とにかく絵のコンクールで、なにかしら賞をもらった、らしい。わたし自身は、あまり覚えていない。両親が嬉しそうだったことはよく覚えている。

 その嬉しそうは、高校で終わった。絵を仕事にしたいと言ったときに、終わった。芸術大学への進学もかなりの難色を示された。趣味で描いているだけだと思っていたと母親は明け透けに言い、虫ばかり描いていて気味が悪いと言う顔を父親はしていた。画家やデザイナーなどの道は厳しいと、わたし自身もわかってはいた。

 純太だけが違った。高校生のわたしの隣で、中学生の純太も絵を描いていた。スケッチブックを並んで開いているわたしたちは、仲の良い姉弟に見えただろう。

 あの子だけだ。純太はわたしの絵を、片手で足りる年齢の頃から燃え上がって死に至るまで、家族の中で唯一肯定的に捉えていた存在だった。

 それはそれで、苦手だった。純太からの、隠しもしない憧憬の瞳をわたしは、まともに直視できなかった。

 理由はもう、はっきりわかる。

 純太に絵の才能はなかった。

 わたしはそれを本人にうまく伝えられなかったし、もしも伝えられていたとしても、燃えた日に終わった話へと変わってしまった。

「透子姉さん」

 純太に話し掛けられる。夢の中でだ。あの子は死んでしまったのだから、ただの夢だ。

 わたしと純太は家にいて、呼びかけた声は声変わり前で高かった。黒色の学生服に身を包んで、純朴そうな顔をして、わたしのそばに立っていた。

「僕は姉さんを凄いと思ってるんだ」

 純太は照れくさそうに笑う。嘘じゃないよと弁解するように続けて、わたしの描いた絵を両手で掲げる。細めた目にはやっぱり憧憬が乗っている。

「本当に、そう思ってるんだよ、透子姉さん。僕もいつか姉さんみたいになれたらいいな、……ほら、夢がいつどうやって叶うかなんてわからないから、僕も簡単に諦めたくはないなって、思うんだ」

 すっきり晴れた顔と声だった。わたしは頷いて、頑張ってみるといい、だめでもきっと、なにかは孵化するかもしれないと、慎重に返した。それで、ああこれは夢だけれど、実際にあったことなのだと、はっとした。

 わたしが閉じ込めている、考えないようにしている、生きていた頃の弟だ。

 純太は眉を下げた。孵化なんて、すぐ虫に絡めるんだからとおかしそうに呟いて、わたしに背中を向けて歩き出した。

 景色がゆっくり、変わっていった。家の壁はほろほろと焼き菓子のように崩れていって、黒い学生服には炎がまとわりついた。火が大きくなるにつれ、肌がじりじりと熱くなった。渇いた熱を夢の中でもたしかに感じた。

 わたしは純太が燃えるところを見たわけではなかった。でも、想像できた。燃えているような海を描いた。弟が、弟と両親が、しずかに眠れる広大な墓地を、絵の中に用意した。

 炎に全身を舐められながら、純太は振り向いた。透子姉さんと、声にならない声でわたしを呼んだ。

「純太」

 ばちばちと燃え盛る音の中に、わたしの声ははっきりと響いた。

「純太、ごめん。ごめんね。あなたが苦手で、なにも言ってあげられなくて、言ってあげられないまま死んでしまって……」

 本当にごめんね。

 言い終わる前に、弟の姿は消えた。同時に皮膚が焼けそうなほどの熱さも消えて、わたしはなにもない空間にひとりで立っていた。

 わたしは寂しかった。純太はもちろん、両親だって嫌いなわけではなかった。画家の不安定さを心配して、虫相手ばかりの姿に懸念があった、娘の未来を考えている両親だったと今なら思えた。

 わたしはそれなりに大きな賞をもらう絵を描いて、家族との対話を永久に失った。

 そして次は。


 目が覚めると暗かった。しばらくぼんやりとしていれば、目が慣れて物の輪郭が把握できた。わたしは居間のソファーに転がっていた。すっかり夜で、昼間の太陽も、夢の炎も、わたしの怒りも冷めていた。

 そう怒り。飛び起きかけて、気がついた。離れた場所にある食卓に、暮野さんが座っていた。スマホの光がやけにまぶしい。白く照らされた彼の横顔はどこか真剣だった。

 しばらく見つめていると、わたしが目覚めたと気づいたらしく、スマホをおろしてゆっくり近づいてきた。

「透子さん、大丈夫?」

 この人がどさくさに紛れて透子と呼び捨てにした瞬間が不意に思い出された。ちょっと笑ってしまった。暮野さんは不思議そうにして、電気をつけるよと、取り繕うように言った。

 ぱっと部屋が明るくなった。まぶしさに目を細め、頭を振って光をならした。少しすれば問題なく見えて、また別のことに、気がついた。ありえないとはじめは驚いた。

 左目が見えた。思わず右目をおさえて、本当に見えているのか確かめた。

 見慣れた居間の様子がはっきりと映し出された。でも、見え方はおかしかった。

 わたしの左目には、右目をおさえるわたしの姿が映り込んでいる。

「見える?」

 暮野さんが聞いた。わたしは頷きながら、見えている自分と目が合うように、顔の向きを調整した。わたしの左目は、ぽっかりと穴が空いたように、暗かった。

 やっとすべて把握した。右目から手を離して、左目を閉じながら改めて向き直る。

 暮野さんは苦笑気味に笑った。

 彼の肩に、一羽の蝶々がいた。赤い羽を揺らしながら、彼のすぐそばで羽を休めていた。羨ましいほど、嬉しそうな様子だった。

 暮野さんの言った通りになった。

 彼へのすべてが羽に化けて、そこにいた。

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