4、または4と0

 日が暮れた。暗くなった部屋の中にじっと座り込んでいた。時々、左目を掻きむしった。爪の先に絡んだ糸くずは、繭がほどけたものだった。何度も抉ろうとして、やっぱりできなかった。苦しかった。それなのに涙も出なかった。

 朝になるまでそこにいた。部屋が充分に明るくなってから、投げ出していたスマートフォンを引きずり寄せた。

 喉が異様に乾いていたけど、それどころではない。早くやらなければならないと、電話帳を呼び出した。

『透子さん?』

 彼はすぐに出た。なにをしていたのか、なにもしていなかったのか、もうなにも、聞きたくはなかった。

「……お久しぶりです、お元気ですか」

『うん、それなりには。……透子さんは元気じゃなそうだね』

「はい」

『……ずっと、気になってたよ。SNSの投稿もしてないし、挿画予定だって言ってた雑誌も、違う人が表紙だったから。まだ全然経ってないけど、三ヶ月か四ヶ月か、そのくらいだと思うけど、もうダメか』

「はい、だめです、暮野さん。だからさいごのお願いがあります」

『うん』

「わたしの家に来てください」

『うん、すぐに行くよ』

「ありがとうございます。それから……なんでしょう、たぶん、あなたに死んでほしいんだと思います。あなたのことで二度と患ったりしないように、なりたい。思うように絵が描きたいというよりは、絵を描いて楽しかった日々を、取り戻したい。そのためにはやっぱり暮野さんが邪魔なんだと思うんです、この世からいなくなってくれれば、それを飲み込むために絵が描ければ、前までと同じようになると思うんです。いいですか?」


 わたしの頼みを、暮野さんはわかったと請け負った。重くも軽くもない、まったく普通の声色だった。どんな顔をしているのか考えてみたけれど、頭がぼんやりしてろくな像は結べなかった。

 無機質な終話の音を聴きながら外を見た。桜が綺麗に咲いていた。遠くの並木だったけれど、薄桃色の花弁が群れている景色は幻想的で、毎年こうして窓から見つめ、時には題材と混ぜ合わせて絵を描いた。いつでも、溜め息をつきたくなるような、美しさだった。

 今年はひとかけらの感動すらない。左目の虫も、ずっと黙り込んでいる。遠くでは子供のはしゃぐ声が聞こえていた。土曜なのか日曜なのか、曜日や日付の間隔が驚くくらいなかった。

 地獄変。凄惨で美しい光景を実際に見て、絵を描き上げる絵師のはなし。いつだったか、ネットでちらりと読んだだけの、山吹さんに挙げられるまで気に留めなかった文豪の作品。

 わたしは似たような作業を、黒くなった遺体と、警察からの詳細な事故説明で、おこなった。そしてその絵は評価された。

 なら、出来るかもしれない。離れたのに毎日恋しい人のさいごを自分で作れば、それを実際に見られれば、わたしはまた絵の描き方を思い出せるかもしれない。

 だめだったときは、もうやめよう。絵も、この家も、生活も、全部やめようと決めて、無感動な春の日差しを見つめながら暮野さんを待った。

 彼の姿が窓辺から見えた瞬間に虫はしゃべった。

「暮野さんと遊びたい、はやく一緒にいさせてほしい。暮野さんがきてくれてうれしい、ねえ、何か映画が観たいな、一日遊んでくれるかな、たくさん遊びたい、ずっと一緒にいたいな」

 いいよ、好きなだけ遊びなよ、満足したらおまえも消えろよ。

 口には出さずに言い返した。はしゃいだような声を抑えるために眼帯をきっちりと付け直し、呼び鈴を鳴らした暮野さんを迎え入れた。

 彼は、なにも変わってはいなかった。ちょっと困ったように笑って、後ろで縛った黒髪を揺らしながら丁寧に頭を下げた。

「お待たせ。色々ごめんな、透子さん」

 春の中で暮野さんは微笑んだ。わたしは首を振り、彼を招き入れて作業場に通し、まずは抱きついた。懐かしい匂いに胸が詰まったけれど、好きだと思うそばから憎いと変換されていった。

 ごめんなさいと、謝った。それから押し倒した。彼は一瞬だけ驚いた顔をしたけれど、すぐに笑った。なぜ笑うのかわからなくて、この人を怖いなと思った。怖くて可哀想な人だった。

 がたがたと窓枠が揺れた。春の嵐が吹いていた。遠くから飛んできた桜の花弁が、ゆっくりと庭先で舞っていた。色鮮やかで、美しいはずの春だった。わたしは彼に手をかけた。


「……あんたやっぱり綺麗だなあ」


 暮野さんは言った。わたしに首を絞められている最中だった。やっぱり綺麗だなあ、横顔が綺麗だったけど、正面でも綺麗なんだなあ、そう続けざまに話したので、膂力が足りないと更に絞めた。うぐ、と唸ったその振動は掌に伝わった。喉仏の上下がゆっくり押し潰されて、少しすれば何も言えなくなったみたいだった。

 思い返せば暮野さんははじめからこうだった。わたしのことが好きなのだ。なので、おとなしく絞め上げられていた。

 早く死んでくれないかな、暮野さん。そう呟こうとしたが、できなかった。完璧に絞殺する直前に激痛が走り、わたしの両手は不可逆に緩んだ。暮野さんは咳き込む、わたしは顔をおさえてうずくまる。痛い、痛い、目が痛い。

 眼窩に居座る虫が痛い!

「透子」

 暮野さんがわたしをつよく呼んだ。ほとんど掠れた声だった。また咳き込み、そっと背中を撫でてきた。この人が本当に憎いと反射で思った。

 彼の首を再び掴んだ。わたしは驚く顔を見ながら膝へと乗り上げ、ぎりぎりと更に絞めた。驚きの顔は苦しげな顔になり、諦めたような顔に変わった。その間も左の目は痛かった。ずっと虫が暴れていた。えぐるような痛みの中で、わたしは暮野さんをふたたび押し倒してすべての体重を首へとかけた。

 眼窩が燃えているようだった。その痛みには怒りが確かに乗っていて、わたしは怒りで生きていたし暮野さんは怒りで死ぬべきだった。朦朧としながら見下ろすと目が合った。立ち振る舞いのわりには純粋な瞳がわたしを見つめた。

 あんたやっぱり綺麗だなあ。声にはなっていない台詞が、唇の動きだけで読み取れた。

 目の中がいっそう痛くなってわたしは、不服にも泣いているのだった。


 そしてばきりと音がした。


 痛いと、感じる暇もなかったと思う。

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