3
昼前の明るい庭先に裸足のまま飛び出した。よろけたけれどかまわずに、最も日当たりのいい場所で立ち止まった。羽虫が建物の影にわだかまっていた。普段なら眺めるけれどそのような余裕はなかった。
スマートフォンのカメラを起動し、自分の顔をアップで撮影した。普段しない作業だから手間取って、何度か取り直す羽目になった。
うまく撮れてからすぐさま確認した。右目はやはり、少し赤みがかっている。今は痛み自体はないけれど、背筋を嫌な予感が伝い落ちた。
いちばんはじめ、左目が芋虫になってしまった時を思い出そうとした。あの時は、どうしてそうなったんだったっけ。急に痛み出して、気を失って、起きたら目が、虫の卵に……。
ぞっとする。右目もいずれそうなるかもしれないと、考えたことがなかったのはわたしの落ち度だ。考えたところでどうしようもないけれど、それでも、なにか対策はできたかもしれない。
スマホを片付け、ひとまず家に戻る。虫たちの世話をしてから食パンを食べて、日課となっている技術保持のための習作をいくつか描いた。絵の具で色も塗り、とりあえずは保管した。
いつも通りの時間だった。しかしその間、ずっと右目が気になった。
気分転換のために外へ出てみたけれど、目的もなくて近所をうろうろ歩き回っただけになった。春のやわらかい日差しを浴びても感慨がなく、余計なことを考えそうになり慌てて踵を返した。
道すがら、カップ麺やパンを買ってから帰宅した。二階に向かい、純太の部屋の前に数分立った。結局また中には入らず、でも変えるべきかもしれない、なにかは変えていかなければずっとこのままかもしれないと、両親の寝室に向かった。長い間閉ざされていた扉に手をかけた瞬間は、わずかに緊張した。
中はあまり見覚えのある風景ではなかった。わたしに両親の部屋を訪れた記憶がほぼないからだ。幼少期ですらそうだった。ずいぶんおとなしくて、聞き分けが良すぎて、ずっと絵を描いている子供だったとどちらかから聞いた。手がかからなかったことは助かったとも、言っていた。
部屋にはくたびれた布団付きのダブルベッドがあり、壁に五年前のカレンダーが下がっている。写真や置き時計の乗った棚には埃が積もっていた。閉まったままのカーテンは褪せてうすい。
木材で出来たクローゼットが部屋の角を埋めていた。開いてみると、ふたりの服がハンガーに吊るされじっとしていた。防虫剤のこもった臭いが鼻を突く。埃が透明な光の中で舞い上がり、ふわふわと飛んでいった。
咳き込んだ。やっぱり掃除には、入っておくべきだった。埃っぽさが耐えられずにカーテンを開け放ち、窓を全開にした。春の空気が部屋の中へと流れ込んだ。その途端に、うずくまっていた澱みのようなものが、外へと逃げていった。
時間の解凍を思いながら、ベッドに腰掛けた。ふたりで寝る前に観ていたと思われる映画のDVDが、テレビ台の下にいくつも積まれていた。種類の年月は止まっており、古典の名作らしい、古い映画が多かった。
暮野さんと居間で映画を観た記憶がある。急に思い出し、即座に思考を切った。目が心配だった。暮野さんを想うほどに、悪化しているのだ。
夫婦の寝室を逃げるように出る。窓はそのままにした。ついでに家中の窓を開けていき、空気の入れ替えとともに思考の入れ替えも済ませようとした。
でも邪魔が入った。頭から、いや左目から、声がした。暮野さんと観た映画の話をぶつぶつと話し始める。反射的に眼帯を抑えるけれど声は止まない。とてもうるさい。暮野さんと過ごした時間の話を始める。背中を丸めて文字を打つあの人の手料理は美味しいとか、でもパスタに入っていたキャベツの芯は残したとか、パンの耳も嫌いだとか、暮野さんの部屋に戻ってあの人の好きな小説の、あの人の好きな文章の上で眠りたいだとか肩に乗りたいだとかパソコンの隣で遊びたいだとか指で優しく撫でられたいだとかどこでもいいから一緒に出掛けたいだとかぶつぶつとお経のように話されてぶちりと切れた。人が堪忍袋と呼ぶものの尾が切れた。
眼帯を剥ぐように取り払い、洗面台越しに蛹を睨んでから、作業場に向かった。
なるべく長い筆を選んで持った。さっさとこうすれば良かったのだと思いながら、鏡の前へと戻った。糸に包まれた蛹は急に黙り込んだ。わたしが何をする気なのか、わかっているような沈黙だった。
過去に何度も潰そうとした。この虫ははじめから、わたしの邪魔しかしなかった。目が見えなくなって、余計な感情をうんで、目に戻ったのに蛹に変化して、とうとう目の中で喋り出した。
そして異変が右目に及びそうになっている。嫌な予感が寝室の埃のように、うずたかく積み上がっている。
わたしの視界ごと奪うつもりだとしか、思えない。どちらも見えなくなったらいよいよ終わりだ。この先ずっと、絵なんて描けなくなる。描きたくても、描けるくらいに感情が逆立っていたとしても、雨の中で燃え上がる家族の車が鮮明に想像できたように、光を失ったわたしを憐れんでの構図が思い浮かんだとしても、見えなければ描けないと同義だ。
絶対に嫌だ。わたしの邪魔をするものは許せない。
たとえわたしの目玉だろうと。
「出てきた瞬間に、潰しておけば良かったんだ……」
呟きながら筆を握り直す。左目を自分の巣のように占領した繭を、じろりと眺めてから腕を上げた。
筆先ではなく、尖った先端を左目に添えた。ゆっくり突いてみると驚いたような声が響いた。思わず笑ってしまう。本当に生きてるんだ、と口から漏れた。
生きてるのならさっさと死んでほしい。はっきり告げてから力を込めた。
一気に突き刺そうと狙いを定めた瞬間、また声がした。
『……本当ならそうしないように見えるあんたが虫に手をあげること自体が、とんでもない問題に思えるんだ』
芋虫の声ではなかった。しばらく聞いていない人の声が、記憶越しに語りかけてきた。
『なにか、取り返しがつかないような。あんたは明らかに、あの芋虫に対してだけ、辛く当たる。その理由はわからないけど、どうしても気になるんだ。透子さん俺は、透子さんに酷い思いをして欲しくないんだよ』
カランと音が鳴った。取り落とした筆が、白い洗面台の中に転がっていた。拾おうと伸ばした指先は震えていた。掴んで握り締めるけれど、震えはおさまらなかった。
ほとんど無理矢理目を突こうとする。狙いが定まらず、頬骨の上に切っ先が刺さった。力も入っていなくて、筆はまた洗面台の中へと転がり落ちた。それからニ回、同じように潰そうとしたけれど頬や目尻に細かい傷が生まれただけだった。
四回目は、諦めた。出来なくなってしまったとわたしは悟った。
暮野さん。暮野さん、あなたは。
どうしてまだ、わたしの邪魔をするんですか。
「だめだ……」
唸るような声が出た。転がったままの筆をとり、目には向けないまま、鏡を覗いた。左目には繭が張っている。右目はじんわり、赤くなっている。
怖い。わたしの一部のはずのものが、わたし以外の存在によって揺らいでいる。どうしてこうなってしまったのか、わたしの芋虫はどうして、わたしの言うことを聞いてくれないのか。
絵が描けない藤宮透子がひつような人間なんていないのに?
うう、と思わず呻いた。筆を床へと雑に捨て、自分の髪をぐしゃぐしゃと掻き回しながら鏡の前から離れた。
絵を描く部屋に飛び込み、色鉛筆を握った。近場にあったスケッチブックを開いて絵を描いた。なにも考えずなにも決めず、勝手に生み出されていく自分の絵をどこか俯瞰しながら、描き続けた。
両親を思い出し、純太を思い出した。その時の喪失は、さみしさは、糧だった。わたしが生きて描くためのかなしみで、じゃあもう、そういうことなのだと。そうするしかわたしの絵と目のためには仕方ないとわかってしまった。
色鉛筆を置いた。スケッチブック上には、暮野さんの絵が生まれていた。誰かに判断を委ねるまでもなく、よく描けているいい絵だった。こちらを見る目がいつも通り優しかった。嬉しくてむなしかった。わたしは赤い油彩絵の具を手にとった。
暮野さんを塗りつぶした。真っ赤に染まっていく彼を見下ろしながら、わたしは決めた。
芋虫は笑いもせず喚きもせず、黙って眼窩の中にいた。
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