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あたたかく晴れていたので、美術館に出掛けてみた。平日だったので、空いていた。敷地内の桜はずいぶんと蕾が膨らんでおり、開花までそう遠くないように見えた。咲けばかなりの見応えがあるだろう。何度か様子を見にこようかなと考えつつ、たっぷりとした枝を見上げた。
赤茶色のレンガで舗装された敷地は落ち着いた雰囲気だ。外観を楽しみつつ歩き、光をしぼった館内に入ると、ふっと一段階寒くなった。
通常展示のほか、特別展と子供向けの絵画教室が行われていた。通常の展示は、そう遠くない美術館なので何度か見に来たけど、絵画教室にははじめて遭遇した。
スタッフさんに断って少し覗いてみると、案外と盛況で驚いた。十人以上は子供がいて、みんな手や服にいろんな色の絵の具をつけていた。はしゃぐ声が多い。
描かれているのは桜だったり、海だったり、学校の様子だったり、家族の集合絵だったり、まったく違った。
子供の絵はとても自由だ。そこには感情だけが乗っていた。ただひたすら、楽しいのだろうなと思った。とても遠くて、まぶしい光景だった。
しばらく眺めていたけれど、数人の子供がギャラリーであるわたしを気にし始めたタイミングで退散した。五歳程度の男の子が描いていた、真っ青に塗られた桜の絵が印象に残った。
特別展示は絵画ではなかった。あまり明るくない分野だったけれど、抽象的で前衛と呼ばれそうな彫刻や、写実性を求めた精巧な銅像、どこか仏像のような陶芸などが並ぶ様子は面白かった。
大きな蝉の彫刻の前に数分立っていた。数十分だったかもしれない。つぶらでかわいい瞳に照明が跳ね返り、動き出しそうな躍動感が生まれていた。可能なら触れてみたかったけど、当然禁止されていた。艶やかな体と精密に表現された翅の模様が特に美しかった。
すこし休もうと寄った休憩スペースに人はいなかった。庭に面した壁は全面がガラス張りで、開花前の桜がよく見えた。美術館だからか、実際の景観にも気を配られている。いい雰囲気だ。
コーヒーを買い、適当な位置に居座ると決め、スケッチブックを開いた。
さきほど見た大きな蝉や、庭に植わる木々や小さな池などを描き、持ち込んでいた色鉛筆で着色した。
習作だった。技術の保持は大事と、山吹さんも言ったし、わたしも同意だった。いくら思うように描けなくとも、完全にやめてしまうわけにはいかない。木の幹に焦茶の色鉛筆を滑らせる。紅葉していない木の葉を全て、赤色と橙色で埋め続ける。
ただそれだけの作業を続けてふと顔を上げると目が合った。すぐそばに男の子がいた。絵画教室にいた子だろうと、絵の具で汚れた白いシャツを見て納得した。
彼は丸い目で、じっとわたしの絵を覗き込んでいた。
「葉っぱ、どうして燃やすの?」
不意に問われた。燃やしたつもりはないけれど、確かに外の木は紅葉してない。
暮れた色が好きだった。理屈や理由はなく、昔からそうだった。
だから家族が燃えて死んだと聞いて、ほんの一瞬だけ、綺麗だっただろうなと感じてしまった。その瞬間の、言葉にならない衝撃を思い出す。
「燃えてると、だめかな」
つい、聞き返した。男の子はびっくりするぐらい激しく首を振った。
「きれい」
「……、本当に?」
「うん、好き! これ、ちょうだい」
あっさりと肯定されて驚いた。子供はなんて素直なんだろうか。笑い声が自然に漏れる。
「いいよ、じゃあこれは、今から君だけの絵ね」
一応自分のサインも描いて、その一枚をさっと破り差し出した。彼は花が咲くように笑った。明るくて、まぶしくて、純粋な笑顔だった。
お母さん! と自慢のために母親を呼ぶ姿を尻目に席を立つ。通常展示には寄らず、そっと美術館を出た。
眼帯をおさえつつ、淡く明るい空の下を歩いた。別に構わないだろうとあげてしまったが、本当に良かったのかどうか、わからないけれどもう渡してしまった。
あげた絵の真ん中に佇む暮野さんを消さなかったのだ。
たった一枚だけでも、彼を描いたものを残したかったのかもしれない。そんな感傷はやっぱり甘えだった。
美術館以降も、色々と描いてみた。虫も景色も、ただの写生さえもまったく上手くいかなかった。
なんのために暮野さんを追い出したのか、そもそも追い出せてはいないじゃないか、結局恋しくて姿形を思い描いて、それが筆にも乗っているじゃないかと、自問自答は何度も繰り返した。
片目で描くこと自体は慣れた。念のため、歩く練習も行っている。復帰したとしても、片目だけで描くことになるだろうという予感はあった。それならそれで、覚悟は決めた。
本当は嫌だけれど、なにもかも描けなくなるよりはましだった。
気晴らしを兼ねて純太の部屋を掃除してみるかと、ふと思い立った日もあった。けれど実行には移せず、ノブにかけた手は緩やかに引いた。
扉の向こうにあるものを、わたしは直視できないかもしれない。純太の顔すら、うまく思い浮かべられないままだ。
変化はきっと恐ろしい。絵の評価が跳ね上がったのは確実に、家族の死が関わっている。頻繁に赤色を使うようになったのもそれからだ。ひとりになる前も、それなりに絵の仕事はもらえていたけど、自分で見比べてもまったく違う。
山吹さんが話した、アルコール依存症の作家をふと思う。その人はどんな風に落ち込んで、どんな風に考えて、どんな風に溺れていったのだろうか。
そして今はどうなっているのか。この世に生きたまま、作家を続けているのだろうか。
調べれば、出てくるかもしれない。階段の前で立ち止まってスマートフォンを翳すが、
「しらべてもしかたないよ」
唐突に声が響き、驚いた拍子に壁にぶつかった。
「いっ……た……」
強く打った額を抑えて、何度か頭を振る。あと少し遅ければ階段を踏み外すところだった。命拾いをしたけれど、家の中には当然わたししかいない。
壁に手をつきつつ、二階の狭い廊下を見渡した。しんとしている。窓の影、部屋の扉が左右一対で向かい合う位置は、暗くはあるがなにかの気配は感じない。
息を吐きつつ、まさかね、と独り言を呟いた。それを嘲るような笑い声が響いて、思わず壁に背をつけた。
鼓動が速くなる。もう気付いた。
声は頭の中から聞こえてきた。
「どうして」
呻くような声が出た。眼帯をおさえて、生きてるのかと、どうして急に話し出したのかと、こわごわ問い掛けた。なぜ今まで沈黙していたのか、なぜ今、わたしに近付き始めているのか。
なぜ今更、追い詰めようとしてくるのか。
脳に響くような笑い声がした。左目が絞られたように痛くなり、その場に前のめりに倒れ込む。痛みのあまり、咳き込んだ。唾液の線が床に向かって伸びていく。
赤い芋虫の姿が脳裏をよぎった。笑い声はいつの間にか消えたけれど、左目と、その周りの頭がずっと痛かった。廊下の隅にうずくまりながら、痛みが過ぎ去る瞬間をひたすら待った。
やがて落ち着き、壁に寄りかかり、立ち上がった。ぼんやりはしたけど痛くはなかった。今のうちにと、ゆっくり階段を降りた。みしりと軋んだだけで、すこし怯えた。
嫌な汗をかいていた。顔を洗おうと洗面台に寄り、鏡を覗き込んだところで、思い当たった。
蛹になった芋虫の声。急に話し出した意図。
あの芋虫が好んでいたもの。
「ねえ、暮野さんに会わせて!」
頭の中で大きな声響き渡った。左目がまた痛み出す。会わせて、会いたい、どうして一緒にいてくれないの。喚き続ける虫の声を聞きながら、わたしはとっさに右目をおさえた。
それから叫んだ。
「わたしだって会いたいよ!」
本気の本音だった。暮野さんを思い出さないようにするたび、暮野さんの顔が見たくなった。顎をぐりぐり擦る癖が見たかったし、背中を丸めて書いている姿が見たかった。一番最後の、ひとりで帰っていく彼に追い付いて彼だけを選べればと何度も何度も考えた。
だからあなただけではないし、わたしのほうが彼に会いたいに決まってるでしょう!
不意にふつりと、芋虫の声が途切れた。安堵して、ほっと息が漏れた。でも長くは続かない安堵だった。
無の視界の中で、右目がじわじわ痛くなってきた。
背筋を冷たいものが走った。ぱっと手をはなし、まさかと思いながら、目の前の鏡を凝視する。
右の目。虹彩と瞳孔が、うっすら赤色になっていた。
だめかもしれない。
わたしの呟きを拾うように虫が笑った。
とても楽しそうな声だった。
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