春
1
桜が咲くには早いけれど、桃はもう咲いている。軒先に出ればどこからか甘い香りが漂ってきて、つい立ち止まり、息をふかく吸い込んだ。
マフラーをしなくてもよくなった。分厚い上着も、そろそろひつようない。
なにより晴れやかなあたたかさの中で、さまざまな虫たちが起き始めた。いい時期だ。わたしは春がいちばん好きかもしれない。
同時に、今年の春はあまり好きじゃない。どうしようもなくひとりだからだ。ひとりだし、絵をろくに描いていない。
満足できる、または仕事として充分な絵が、あれから描けていなかった。
わたしに文芸誌の挿画をおねがいしてくれた出版社に断りを入れたし、いろいろな絵描きさんの作品が集まる展示会も辞退したし、今までに描いた絵を使いたいという要望には応えられたけれど、それ以外はまだ、できない。難しいではなく明確にできない。
一度、心配したらしい藪中さんが電話連絡をくれた。結局スランプは抜けず、彼とも離れたのだと説明すると、すこしだけ寂しそうだった。いつでも連絡してくれていいと言い添えて、藪中さんは通話を切った。ありがたかったが、甘えれば更にだめになると思った。
そのように過ごすあいだに、春がやってきた。あたたかい、すべてが明るく映る季節の中で、わたしはまだじっとしている。
左の眼窩におさまった蛹も、不気味なくらい沈黙している。
これが本当にただの蛹であるのならば、いつかは生まれるはずだったけれど、思わしくはない。
元の目玉にもどる保証はどこにもないのだ。
「つぶしたらどうなるかな……」
鏡越しに問いかけてみる。繭らしい、白くてほそい糸に守られた蛹は、相変わらず黙ったままだ。気配ひとつ、今は感じられない。
おしゃべりで泣き虫だった赤い芋虫が懐かしくなってくる。まるまる育って、あの人の肩でなにか、ずいぶん幸せそうにしていたあの芋虫。わたしが彼とふたりで過ごしていた期間とも重なって、みぞおちの辺りがぎゅっと痛くなってくる。
眼帯をつけて蛹を隠す。紐付けで思い出された暮野さんの顔も、覆い隠そうとしてつけている。
なんにせよ春だった。
新しい季節のはずだと、わたしは自分に言い聞かせていた。
気晴らしするのはいいよーと、山吹さんが言った。とくべつ用事はないのだけれど、わたしの状態を知っているので、以前よりも気にかけてくるようになった。
作業用に借りたというレンタルスペース内にふたりきりで向き合いながら、山吹さんはパソコンに向かってひたすら文字を打ち込んでいた。
「でも透子ちゃんは、私みたいに小手先でどうにかする絵描きさんじゃないもんね。その感性が好きなんだけど、うーん、じゃあメンタルケア方向で考えるほうが合ってるのかなあ」
「メンタルケア」
つい聞き返すと、彼女は画面から目を外し、ため息をつきながらコーヒーを啜った。
「でも、さらに逆なのかも。地獄変だよ。見たものしか描けない画家さんの話。地獄みたいな光景を実際に作り上げて目にして、最高傑作を描き上げるんだけど……って、これ知ってる?」
「うん、一応」
「極端な話だけども、例えば小説家さんでも、ちょっと精神を病んでる……アルコール依存症だったかな……なんせ、ぼろぼろの状態で書き続けた小説はすごく評価が高くって、でもいざ治療したら何も書けなくなるんじゃないか、評価が伴わないんじゃないかって、さらにうつ病なんかを併発した人もいるって、聞いたことがあるよ。昔の文豪さんなんかは、けっこうその節があるとは思うし。真偽の程はともかく、透子ちゃんもたぶん、その類だよね?」
ちょっと思い出してみるけど、山吹さんに家族について話した記憶はなかった。
でも、彼女が好きだと言って、実際に賞ももらった絵は確実に、家族の死を受けて仕上げたものだ。
特に、弟の。
「そうなのかもしれない。でも、苦しいってほど苦しいわけでもないの」
芥川の作品を思いつつ、自分用のアイスコーヒーを啜る。一応持っているスケッチブックは、景色や虫などのデッサンで埋まりつつある。
それらはやはり、欠いている。
中心に据えられるはずの人が今何をしているのか、わたしはまだ考えずにはいられない。
「三人で配信したの、冬の話のはずなのに、なんだか遠いねえ」
わたしの脳内を読んだように山吹さんが話し出す。
「あの時の透子ちゃん、絵がどうこうは抜きにして、すごく嬉しそうだったな。暮野さんもにこにこしてて、ちょっと恥ずかしくなったくらい。暮野さんのこと本当に好きなんだね、暮野さんも一緒に配信したいって返事が来た時から、そっかあ、とは思ってたけど」
「……わたし元々、配信とか、人前に出るのは好きじゃなくて」
「それもだけどね、あの返事って暮野さんが書いたやつだったから、ああ今一緒にいるんだなーってわかっちゃってさ」
思わず山吹さんの顔を見る。平然とした様子でマウスを動かし、何やら文章を消していた。
わたしが見ても完璧にわたしの文章だったけど、と言ってみれば
「あ、文面はすっごい透子ちゃんだったよ。さすが暮野さん! って感心しちゃった。だって透子ちゃんは、私にあそこまで丁寧な長文返さないもん」
あっけらかんと返されて、不意打ちにちょっと笑ってしまった。
「うん、わたし、山吹さんのこと苦手だから」
「でしょ? 私のこと苦手な人ばっかなんだよね、でも苦手な上で相手してくれる絵描きさんって透子ちゃんくらいだから、スランプ脱出のために協力は惜しまないつもりなんだけど、難しいなー」
「一年、二年くらい休業しても、生活は問題ないから」
「私には問題だよ、透子ちゃんの新作絵画みたいもん」
軽い調子で言ってから、できた! と元気に声を上げた。何かしらの原稿が終わったらしい。ぐるぐる肩を回しながらコーヒーを飲み干す姿は何か、活力というか、やる気に満ち溢れている。
山吹さんはパソコンを閉じた。鞄からiPadを取り出して、今度はデジタルイラストを描く体勢を取り始める。
本当に元気な子だ、台風のように止まらない。だからみんな彼女が苦手で、怖いのだろう。
「まあでも、暮野さんとあっさり別れたのが良かったのか悪かったのか、微妙なところだよね」
彼女は普段と変わらない顔のまま、さらに続ける。
「好きな気持ちが消えるわけじゃないんだし、生きてるといつかまた会えちゃうから、期待が常にどこかにはあるのかも。それでも離れたのはさ、透子ちゃんがまた前みたいに描きたいって思った以上に、暮野さんに描けなくなったのは自分のせいだって思わせたままでいたくなかったってことなのかなって、私は感じたけど。……文字にも絵にもできないなにかが透子ちゃんの中にはある気がするの。もしかしたら、それが描ければ、いいのかもね……」
なにか重大な話をされた気がした。考えてみるけど咀嚼しきれず、結局はわからないと返した。山吹さんは嫌そうな顔もせずに笑い、技術の保持は大事だよーと軽い調子で言いながら、スケッチブックを視線で指した。
頷いて、鉛筆を持った。部屋の窓から空を見て、煙のように散っている雲の形と、不揃いのドミノみたいな建物の頭を描き出した。
そこには虫も暮野さんもいない。薄い春の空がある。
「暮野さんってさ」
iPadから目を離さないまま、山吹さんが話し出す。
「本当に、怖い書き方する人だよね。透子ちゃんの代わりに書いたメッセージもそうだけど、特に一人称の精度がおかしくって。ゲームのシナリオなんて、架空の世界の架空のキャラクターが生身で生きてこれを書いてる、って文章にしか見えないもん。あんなの、普通の人がやり続けたら病気になっちゃうよ。だからこそ、暮野さんの文章だけは、ぜんぜんトレースできる気がしないな……」
山吹さんは珍しく、憂いを帯びたような目をした。言葉の内容は同意だったし、暮野さんに惹かれた理由の一端でもあったけど、黙ったままでいた。
左の眼窩が、みしみしと軋み始めた。いっそ鉛筆を突き立てたい衝動に駆られたが、誤魔化すためにわざと芯を折って、耐えた。
何の変哲もない空に生まれた黒い点は、消そうが消えない穴のように思えた。
お互いの作業や練習などが終わってから、適当な居酒屋で晩御飯を一緒に食べた。あれだけ避けていた山吹さんとはこうやって会うのに、雪の日でも会いたかった暮野さんとは一切会わなくなったのだから、変な話だった。
山吹さんはわたしのオクラ納豆にもう一人前追加とは頼まないし、酒類があまり得意ではないと薄いカクテルがほとんどだし、エイヒレを美味しそうに見たりはしない、でもそうやって比べ始めると左目と同時に頭が痛くなってくる。
自分で決めた別れに自分がいちばん納得していないと突きつけられたように錯覚する。
結局なにも好転はしていない、その事実をごまかそうとお酒を飲んだ。
居酒屋のテレビでは芸能人が、新年度に向けての抱負を話していた。
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