8

 顔を合わせるつもりはなかった。山吹さんと会った翌日に電話をかけて、二度と会わない意志を伝えようとした。

 わたしの着信を受けた暮野さんは、何を言われるのかわかっている様子だった。こちらの話を途中で止めて、会いに来ると言った声は慎重で低くく、なによりも切実そうだった。

 断るか迷ったけれど、逡巡の末に了承した。苦手とする山吹さんとは一種の話し合いをしたのだから、好意を持つ暮野さんにもその権利はあると自分に言い聞かせながら、彼の到着を待った。

 庭に面した縁側から外を見た。雪はすっかり溶けていたけど、陽がまったく当たらない場所だけは、凍ったひとかたまりが青白く横たわっていた。その近くには、わたしの作った虫達のお墓があった。盛り上がった土の上は、溶けた雪で湿っていた。

 暮野さんは昼前にやってきた。手にぶら下げたビニール袋には、ふたりぶんのお弁当が入っていた。近場のスーパーで買ってきたようだった。

「話の前に、まず食べよう」

 改まった顔と声で言われて、逆らわなかった。向き合って座ると、鮭の塩焼き弁当を置いてくれた。暮野さんのお弁当には大きなアジフライが乗っていた。

 奇妙なほどのしずけさに包まれながら、ふたりでお弁当を食べた。彼と共に食事をするのはきっと最後だ。目の前にすると、寂しさが足元に生まれてしまった。ゆっくりとのぼってくる離れたくない衝動を、ピンク色の切り身ごと無理矢理飲み込んだ。塩気が喉に引っ掛かったけどお茶で流した。

 暮野さんは一貫して黙っている。伏し目がちにフライを齧って、たくあんと白米を咀嚼し、垂れた長い横髪を慣れた様子で耳へとかけた。二日前に会った時となにも変わらない。少なくとも外見は、そう見える。

 付け合わせのキャベツの炒め物は、芯が多くて食べたくなかった。残して箸を置くと、暮野さんも見計らったように食べ終わった。こちらを見た目は穏やかだったけれど、心配そうでもあった。

「目、また悪くなった?」

 眼帯越しに、左目をおさえた。それから指を滑らせ、耳へと続くゴム紐に引っ掛ける。

「……あなたに今更隠すことでもないので、納得してもらうためにも、見せます」

 暮野さんが頷いてから、眼帯を外した。睫毛の感触が少しあり、なじませるために何度か瞬きをする。

 相変わらずなにも見えなくて、片目の視界は、真っ暗だ。はじめからなにもなかったようにすら思えてきた。

 息を呑む音が聞こえる。正面を見ると、呆然とした表情に迎えられた。自責の念すら滲む顔に、心苦しくなってしまった。

 何も言えないみたいだった。さらした左目を撫でてから、身じろぎもしない暮野さんをまっすぐ見つめた。

「暮野さん。あの赤い芋虫はもともと、わたしの左目だったものです」

 眼帯を付け直しながら、さらに続ける。

「急に変化して、わたしの目から生まれました。あなたに預けたのは気まぐれと……責任を押し付けようとしての、行動です。芋虫もあなたのところに行きたがったように見えました。……それからの芋虫については、暮野さんもよく知っている通りですし、秋に回収したあとは、一旦わたしの目に戻りました」

「……、そんなところかなとは、思ってたよ」

 やっと口を開いた暮野さんは、眉を下げ、背もたれに体重をかけながら息を吐く。

「なんとなくだけどね。透子さんの目は黒目がうっすら赤かったし、この家では芋虫の姿がなかったし、所在については、話したがらなかったし」

「説明もしづらいことですから」

 視線を落とし、じくりと痛んだ左目をまた撫でる。暮野さんは心配らしく、こちらに来ようと立ち上がりかけたけど、てのひらをかざして押し留めた。

 芋虫の話は今更だったし、ついでに開示しただけなのだ。

「暮野さん、わたしはもうあなたと会いません」

 てのひらを見せたまま、冷静に聞こえるよう、出来る限りしずかに話す。

「山吹さんはわたしが無理矢理絵を描いていたことに、配信のドローイングで気付いていました。その上で、わたしの絵のトレースを完璧に行ったものを、見せてくれました。わたしの絵は彼女に真似できるものになったんです。……それも辛かったですが、なによりも暮野さん、わたしはあなたしか描けなくなった上で、描いたあなたを消し続けることが辛かった。思い通りに描けないことが、描いたのに消さなければいけないことが、本当に辛かった。でもあなたと一緒にいたかった。暮野さん、わたしはあなたを描きたい。でもあなたを描いた絵をどこにも出したくはない。今こうなっている原因のあなたがとても憎い。全部本心です、なので一生会いません。わたしはあなたが好きです、だから消えてください」

 ぽつん、ぽつんと、屋根から滑り落ちる溶けた雪の音が響く。暮野さんはじっと黙っていた。視線を卓上に投げて、垂れた髪を整えもせず、まばたきもしないまま、その場に固まっていた。

 お互いに動かないあいだに、左目の痛みが、どんどん強くなっていった。顔に出さないよう、口の中を噛み締めて耐えた。そのうちに鉄の味がしたけれど、相殺するために噛み続けた。わたしも、暮野さんも、あらゆる痛みに耐えていた。

 先に動いたのは暮野さんだった。深く息を吐き出し、ゆっくりと吸い込んでから、顔を上げてこちらを向いた。怒っても悲しんでもいなかった。穏やかな顔のまま、口元だけで微かに笑った。

 完璧に諦めた人間は解脱したような顔をするのだとわたしははじめて知った。

「透子さん」

 暮野さんは席を立った。わたしのそばまで歩いてきて、一瞬ためらってから、肩にそっとてのひらを置いた。

「俺も、透子さんが好きだ。初めて会った時からだし、頻繁に会えるようになってからは、とにかく大事にしようと思ったよ。あの赤い芋虫も、透子さんだと思って大切に世話した。動物園は一緒に回れて嬉しかったし、部屋を行き来するだけで心が躍ったし、毎日毎日浮かれてたよ。大切だった、大切にしたつもりだった。でも大切にするだけじゃあ、うまくいかないんだな。母親が俺の育てた蝶を捨てた時に、それはわかってたはずなのにな」

 なにも言えないまま、暮野さんを仰ぎ見た。彼は苦笑いを浮かべてから、わたしを丁寧に抱き締めて、体温も感じられないうちに離れていった。

「帰るよ。それから、二度と来ない。連絡も、しません」

「……はい、わたしもしません」

 暮野さんは首を何度か縦に揺らし、お弁当のゴミをすばやく片付けた。わたしを見ないまま玄関に向かう背中がいたたまれずに、つい追い掛ける。

 外へ出る直前に、暮野さんは振り向いた。扉の枠を額縁にして、柔らかい雰囲気のまま、小さく笑った。

「前まで通りに創作できるように、見えないところで祈ってる」

「……、それは」

「もしできなかったら」

「その時は何か考えます、絵を捨てたくは」

「いや、透子さんは、心配しなくてもいい」

 彼は何かを、小さな声で呟いた。耳には届いたけれど、意味について詳しく問い掛ける暇はなかった。

 暮野さんは背を向けて、外に向かって歩き出す。呼びかけても止まらなかったし、呼びかける方が間違っていると、また口の中を噛んで別れの痛みを耐え忍ぶ。

 冬を歩くその背中を、せめて消えるまでは見送った。

 見送りながら、彼の言葉を咀嚼するよう、口にした。


「……“俺があんたの羽に化けるよ“」


 言い終わったときには、暮野さんの姿はもうなかった。

 冬の終わりを待つ前に、わたしと暮野さんは人知れず、しずかに終わったのだった。


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