7
暮野さんと分かれて家に戻ったあと、気絶するように玄関先でねむった。玄関先で倒れるのは三度目だなと、意識を飛ばしながら思い浮かべた。目が芋虫になったとき、芋虫を目に戻したとき、そして今日。
眠れなかったせいで倒れ込んだわけではなかった。左目だ。暮野さんと公園の雪を踏み締めながら、どんどん目の痛みは増していった。ついには耐えられなくなり、絵の納品が済んでいないと嘘をついて帰ってきた。
家に入った瞬間、気が緩んだのか倒れてしまった。冷たい床の上で一時間ほど眠り続け、起きたときにはやはりというべきか、まさかというべきか、異変があった。
左目が、また見えなくなっていた。
「いたい……」
見えない目をてのひらでおさえながら、よろよろと洗面台に向かった。鏡を覗くのが、ちょっと怖かった。ろくなことになっていないと、見なくてもわかる有様だった。
でも覗かないわけにもいかず、はじめは目を隠したまま、ひどい顔色の自分と数秒見つめあった。息を吸い、ゆっくりと吐けば、多少は落ち着いた。
決心して、恐る恐る手を離す。ひゅっ、と喉が鳴った。反射で息を詰めたせいだった。
「なに、これ」
無意識に漏らしつつも、なにであるのかは、わかった。
左の眼窩を埋めているものはどう見ても繭で、どう見ても蛹だった。
片付けてあった眼帯を嵌めた。片目がない状態は久しぶりで、はじめはよたよたと、壁伝いに歩いた。
少しすれば前のように慣れたが、前と同じように放置するわけにもいかなかった。わたしのなにかに問題があることは、明らかだと思った。
歩行訓練を兼ねて、階段に足をかけた。登り始めると何度か壁にぶつかり、一度踏み外しかけた。
家の二階に上がるのは、本当に久しぶりだ。自室は一階だし、作業部屋や虫部屋もそうだから、上がるひつようが特になかった。今も、あるわけではない。
あるわけではないけれど、足が、左目が、登れと言っている気がした。
よろよろと二階の廊下を進み始める。左目に、今は痛み自体はない。行き止まりで一旦止まり、壁に向き合いながら、赤い芋虫の姿を思い出す。
幼虫だったのだから、蛹に変わるのは、道理だ。ならそのうちもう一段階上がるのだろう。そうなると、左目はまた、完全に見えなくなると思われる。
気が重い。壁に背を向け、まっすぐな廊下を慎重に歩く。ふと右目が、真横に過ぎった部屋へと向いた。奇妙な動きだった。吸い寄せられたように、目玉が動いた。
純太の部屋だった。事故以来、入った記憶はほとんどない。父と母の部屋もだ。遺品整理は行なっておらず、掃除にも入りはしないので、中は埃まみれだろう。本当は片付けるべきだとはわかっている。
面倒だから、ではない。今やっと理解した。わたしはわたしがいつだって惜しいのだ。
純太が本当は、わたしを疎ましく思っていたのだとすれば。それに準ずる証拠か何かを見つけてしまったら。家族の中で唯一、絵に理解を示してくれていた相手の姿がまぼろしだったのなら。
その喪失で描いた絵は、わたしの中でまったくの無価値に成り下がる。耐えられない。
ドアノブに触れた手は固まったように動かなかった。結局開きはせず、父と母の部屋は扉前にも寄らずに、ふらふらと階段へ向かった。
慎重に降り切ってから、スマホを手に取った。待機中の黒い画面に、眼帯姿の自分の顔が跳ね返っていた。
今わたしが話すべき相手は一人だった。息をついてから、メッセージアプリを起動した。
雪はまだ残っているが、半分ほどは溶けてしまって滑りやすくなっていた。片目であるため、慎重にならざるを得ない。
片手で抱える荷物も持っていたけれど、足元を見つつゆっくり進めば、どうということはなかった。晴れていて、空が明るい。光を跳ね返す雪のせいもあって、まぶしかった。
普段よりも時間をかけて辿り着いたカフェの中に、待ち合わせた相手は既にいた。
わたしを見るなり、驚いた顔をした。
「透子ちゃん、また目、悪くなったの?」
山吹さんは本当に心配そうな顔をする。素直な子なのだと、わたしも素直に思う。
立ち上がり支えに来ようとするので、制止して大丈夫だと伝えた。正面に腰を下ろすと、どこかのテーブルから美味しそうな香りが漂ってきた。
何も食べていなかったので、コーヒーとともにサンドイッチを注文した。そのあとに、改めて向き直る。何か、しずかな気分だった。わたしは相変わらず彼女が苦手なのだけれど、わたしを本気で心配しているとは、わかる。絵や話を生み出す人間として、常に本気の態度なのだとも、わかる。
わたしもそうだ。そうだった。なら、妥協なんてするべきではなかったのだ。
「山吹さん。これ、見てもらっていいかな」
持ち込んだ小さめのキャンバスを彼女に差し出した。受け取って、保護用の白い布をゆっくり外した山吹さんは、ぱっと目を見開いた。綺麗な絵、と呟いた声色は本当の響きを持っていた。
山吹さんにはこれだけで伝わると思った。絵から目を離した彼女は、彼女らしくもなく、言葉を選ぶように視線を彷徨わせた。
「これは、……暮野さん、よね?」
「うん、そう」
渡した絵は冬のはじめに描いた、秋の山を背景にした暮野さんの絵だ。肩には赤い芋虫を乗せている。問題なく描けて、修正することもなく描き切れた、最後の絵だった。最近のはずなのにとても遠かった。
届いたサンドイッチを齧り、ためらいがちの山吹さんに、ぽつぽつと話をした。
暮野さんを描いたものしか、山吹さんは満足しないだろうということ。今までのように描くには、生活が平穏に寄っていること。培った技術だけで挽回しようとしたけれど多分無理だということ。
芋虫の話は、したところで意味がないので、聞かせなかった。山吹さんは粗方を聞き終えると、まず泣いた。ぎょっとして、少し引いた。彼女は暮野さんを描いた絵を抱き締めながら、唸るように話し始めた。
「透子ちゃん、私、私ね、こんな話すると透子ちゃんにも暮野さんにも失礼だってわかってるんだけど、でも、暮野さんと仲良くなる前の透子ちゃんの絵が本当に好きなんだ。理想だったの。他の誰にも真似できないような、透子ちゃんが怒ったり悲しんだりするのが、全部赤色に乗って燃えてるような、……賞を取った時の絵みたいな、真っ赤に燃えた海を描いたあの絵の、描き出すしかなかったんだろうなって思える心象と情景がね、本当に好きだから……それを描き切れる強さに、憧れちゃったから」
そうだろうなと、わたしにもわかっていた。同じだった。
わたしはわたしで、結局前の自分の方が好きだった。
その確認のために、誤魔化さない山吹さんの言葉を聞きに来たし、納得できた。
もう充分だった。腕を伸ばして、絵を返してもらおうとする。山吹さんは頷きながら差し出しかけたけど、ふと止まった。
「……この、暮野さんの肩に乗ってる芋虫……」
ああ、と声が漏れる。
「たしか前、山吹さんも見てたよね、わたしの個展の時に。暮野さんの鞄にいた、あの子だよ」
「個展の時は思わなかったけど、こうして見ると、似てるね」
「似てる?」
「うん。透子ちゃんがの感情が虫になったみたいな、燃えるように綺麗な芋虫」
つい黙る。山吹さんは掌で涙を拭いながら、今度こそ絵を差し出してきた。受け取って、すぐさま布をかけた。サンドイッチの最後の一切れは、辛子の風味がいやに強かった。
山吹さんとわかれて歩き、途中で町指定のゴミ袋を買った。抱えていたキャンバスを放り込み、口をきつく縛ってから、ゴミの集積場にそっと置いた。
もう要らなかった。暮野さんとは、離れると決めた。
わたしはわたしと決別できない。左目がこうなってしまったからには、余計に。
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