6

 暮野さんからの連絡が来た。十二月半ばの、雪の降る日だった。学生や社会人の休みに合わせてスマホゲーム内でのイベントが増えるらしく、暮野さんはそれらのシナリオ書きに勤しんでいたようだ。

 返事はすぐに返した。返してから、会いたかったので家を出た。雪が降る、しずかな街の中をいそいで歩き、暮野さんの住むアパートを訪れた。

 呼び鈴に反応して顔を出した暮野さんは、わたしを見るなり驚いた。

「歩いてきたの?」

「はい」

 部屋の中に入れてもらった。根を詰めて作業していたのか、洗い物が少し溜まっていた。暮野さん自体も、ちょっとくたびれている。長い髪はまとめられておらず、目の下にはうすく隈があった。

 まとう気配が荒れているのは執筆の影響もあるのだろう。彼の口調は、書いているキャラに合わせてちらほらぶれる。

 積まれた洗濯ものを眺めていると、

「散らかってるからあんまり見るなよ」

 無精髭がぽつぽつと散った顎先を掻きながら、低くつぶやいた。

「わたしの作業部屋も、似たようなものですよ」

「ああまあ、たしかに片付いてはなかったけど、職人の部屋なんてあんなもんだろ」

「他の部屋も、あまり掃除しません。家事がまったく好きではないので」

 ふ、と息だけで笑われる。横目に見ながら、促されるままテーブルの前に腰を下ろした。脱いだ上着は、溶けた雪で濡れていた。

「ここまで歩いてくるの、寒かっただろ。言ってくれれば俺が行ったのに」

 コーヒーを準備しながら暮野さんはさらに話す。

「誰かとまともに喋るの、久しぶりなんだ。どっか変かもしれねえけど、いや変だと思うけど、気にしないでくれ。書いてた話の雰囲気がうつったりするんだよ、うつらないときもあるけどさ、今回はダメそうだ」

「のめり込んで書いているので、仕方ないんじゃないですか」

「まあね、それでも聞いてる分には気になるだろ」

 特にならない。コーヒーを置いてくれた際に、そう告げる。暮野さんは目を見開き、また顎辺りを擦った。机を挟んだ正面に座るかと思えば、わたしの隣に腰を下ろした。

 もたれ掛かってきた。ついまごつくと、含むように笑われた。

「透子さん、来てくれてありがとう。会いたかったんだ、書いてる合間に配信やら画集やらを見て、さっさと会いに行きてえなと思ってた」

 配信の話が出てどきりとしたけど、暮野さんは気づかなかった。わたしの腰に腕を絡めて甘えるように抱きついてくる。

 暖かった。抱き返して背中を撫でて、お仕事お疲れ様ですと、耳元になげた。

 顔を上げた彼は、ふとわたしの左目を見た。

「赤い」

 つぶやかれて、心臓が跳ね上がった。弁解する間もなく、暮野さんの指が伸びてきた。

「……聞かないでおこうと思ってたけど、左目、治ったんだな」

 彼はやさしく目尻を撫でながら、返事を求めない様子で言った。だから頷くだけにした。暮野さんも、合わせるように何度か頷いて、名残惜しそうに離れていった。

 隣に座ったまま、湯気を立てているコーヒーを啜った。暮野さんはしばらく黙って横にいたけど、ふと立ち上がった。十枚程度の紙束を持って戻ってきてから、読んで欲しいと差し出してきた。

 小説だった。以前、彼と動物園に行った時に話していた、ゲームキャラクターのアンソロジー用に書いたものだとはすぐに察した。

「いいんですか? 出版はまだ先でしょう」

「うん、春頃じゃないかな。でも透子さんには読んで欲しいんだ。このゲームも知らないだろうから、わからないとは思うんだけど、悩んでた時に励ましてもらったから」

「……励ましになっていたなら、嬉しいです」

 語尾の声がずいぶん小さくなった。聞き取れたらしく、暮野さんは笑った。小説ははじめの段落をさっと読んで、でもなんだかもったいなくて、一旦鞄にしまった。座り直して、今度は自分がもたれ掛かると、戸惑ったように肩を撫でられた。

 何をするでもなく、同じ空間にいるだけで安心できた。彼も同じなのか、棘立った雰囲気はおさまり、いつもの穏やかさが戻っていた。音を吸い込む雪の作用もあって、数分しずかな時間が流れた。外に誰もいないように思えた。心地よかった。

「……よし」

 不意に暮野さんが体を離した。流しっぱなしの長髪をひと束にして掴み、慣れた手付きでまとめ始める。その仕草はどこか、創作から現実に戻ってくる合図のようだった。

 ばちんと音を立てて髪ゴムを絞ってから、暮野さんはこちらを向いた。

「雪、止まないみたいだから、送っていくよ」

 部屋の窓から見た外は、かなり白くなっていた。このままどんどん、降り積もっていくのだろう。真っ白な世界はきっと綺麗だ。わたしは暮野さんと、早朝の白銀を眺めてみたくなった。

「泊まります」

「え」

「明日の朝、新雪の上を散歩しましょう。見たいです、それから、描きたいです」

「いやでも、人を泊めるスペースが」

「同じベッドで構いませんよ」

「それは俺が構います」

 言ってから、暮野さんは苦笑した。だめなのか聞いてみれば数秒唸って、観念したように首を傾けた。

「透子さん、透子さんのそういうところがさ、俺はすごく好きなんだけど、……そうだなあ、じゃあ俺は床で寝るから、泊まってもいいよ」

「いえ、わたしが床で平気です。作業場の床でよく寝てますので」

「いやそれは、俺が平気じゃないんだよ」

 暮野さんは立ち上がって、備え付けのクローゼットから布団を一式取り出した。

 宿泊は構わないらしく、嬉しかった。せめて夕飯を買ってくると言えば、作るからいいよと言ってくれた。彼の料理はおいしいので、よろこんだ。

 暮野さんが作った野菜炒めや生姜焼きを食べ、酒を飲んでからベッドに入った。

 わたしの布団とは違う匂いがした。外は一様にしずかで、暮野さんは眠れないのか、しばらく寝返りを打っていた。

 布ずれの音を聞きながら、山吹さんの配信について考えた。

 絵の瑕疵を彼女に嗅ぎ取られたことを、暮野さんには結局言えなかった。


 翌朝、あまり眠れないまま起き出して、眠そうにする暮野さんと窓の外を覗いてみた。雪は止んでいて、あたりはすっかり静まり返り、太陽はまだ顔を出したばかりだった。

 しっかり着込んでから、一緒に外へ出た。エレベーターで一階まで降り、扉が開いた瞬間、刺すような冷たい風が吹き込んできた。

「寒い」

 暮野さんの小さな呟きははっきりと響いた。お互いの白い息が、朝の空気を混ぜていた。

 細い路地に積もった雪はまだ足跡がついておらず、影になっているため、青白い。打ち捨てられた自転車にも、雪は深く積もっていた。建物の輪郭を額縁にした空がじわじわ明るくなってゆく。

 比較的往来があるはずの通りも、人の姿がごく少ない。車に踏まれた雪は黒く溶けていたけど、歩道はまだほとんど新雪だ。

 景色全体を、立ち止まって眺める。遠くに見える公園も白く、軒先の自家用車も白く、街路樹や街灯も白かった。綺麗だった。この景色の中にたたずむ暮野さんの絵を無性に描きたくなって思わず隣を仰ぎ見た。

「公園の雪、誰も踏んでないと思うけど、踏みにいく?」

 暮野さんは微笑ましいものを見るように笑い、わたしの手を握った。

 頷いて公園まで一緒に歩きながら、雪景色の絵を脳内で何度も描いたけれど、真ん中にいる暮野さんの姿だけは何度も何度も消したり、置き換えたり、消しきれなくて全て破棄したり、一向に完成形は見えなかった。

 左目がひどく痛んだ。わたしはだんだん、苦しくなっていた。

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