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「えー? じゃあ結局別れちゃってもう駄目で、それから会ってないの? 前よりすごい絵描けてるのにもったいない!」

 諸々の話を聞き終わってから山吹さんは早速こう言った。相変わらず遠慮がなくて明け透けな子だ、慣れては来たけど苦笑してしまう。

 桜がすっかり青葉になって、山の緑がじわじわ濃くなっている。あたたかい日差しも昼時の今は暑いくらいだ。そう考えた矢先に、上着を脱いで半袖シャツ一枚になった人が、暑そうによぎっていった。

 春はもうすぐ終わるだろう。喫茶店の窓から覗いた景色は鮮やかだ。窓に映るわたしの顔は、案外明るい。左目には眼帯がすっかり馴染んで、歩きにくさはもうほとんどない。

 右目の赤さは、いつの間にか引いていた。怒りや憤りが凪いだと同時に、落ち着きを取り戻したのだろうと、自分では思う。自分で認められない自分の感情に折り合いがついたから、とも言えるだろうか。

 なんにせよ、あのまま暮野さんをくびり殺していた場合、右目もだめになっていたかもしれない。

 山吹さんはアイスコーヒーの中身をストローでぐるぐると回しながらふてくされていた。わたしと暮野さんについての話に対し、当人よりも不満そうにしているので、何度目かわからない苦笑が漏れた。

「ねえ山吹さん、そもそもあなたは、わたしと暮野さんのあれこれがどっちかといえば不満なんじゃなかったの」

 気になって問い掛けてみると、違うよー! と人目をはばからない声量で否定してきた。

「なんていうか、うーん、二人がお付き合いするのが不満だったんじゃなくてね、なんだか変だったっていうか……うまく言えないんだけど、あの時はどっちも、打ち身だらけのまま殴り合ってたように見えたんだよ。どっちもすごい作家さんだからかな? 才能同士が喧嘩してるみたいだったというか……特に透子ちゃんはほら、絵になんでも乗せちゃうから、これはまずいんじゃないかなーって」

「でも、なんでも乗せちゃってたわたしの絵が好きだったんでしょう?」

「それはそれだよ! 透子ちゃんってなんだかこう、案外サディストだよね」

 心外だった。心外だったけど、好きな人を絞め殺そうとしたんだったと思い出し、肩をすくめるだけにした。

 山吹さんはコーヒーを啜り、気を取り直したように背筋を伸ばした。食べ終わったパスタの皿をテーブル端に寄せる動きがきびきびしていた。

 意気揚々と取り出したiPadを机の真ん中に置き、即座にレビューサイトを開いて見せてきた。

「ほらこれ! 透子ちゃんどうせチェックしてないでしょ、仙人みたいに暮らしてるから」

「前より外に出てるよ」

「えー、でもそれは引きこもりの人がトイレには出てくるくらいの頻度じゃないの?」

「それなら、けっこう多くない……?」

「うーん、ほんとだね」

 話しながら山吹さんは一冊の本へのリンクをクリックした。彼女が寄稿したアンソロジーらしいけれど、見知った名前はもう一つある。

 暮野さんだ。仕事用のkurenoではなく、本名が作家陣一覧に並んでいる。暮野直矢。たった四つの文字の並びが、途方もなく浮かんで見える。

 山吹さんは電子で落としたという作品内容を続けて表示した。読めというわけではないらしく、さっさと末尾のあとがきまでページを飛ばし、暮野さんのコメントだけを見せてきた。

 小説を書いたのは初めてで、書いてみると違った発見もあって面白かった。名義も思い切って変えたので、またこの名前で会えると嬉しい。

 そのようなことが書かれてあった。ちょっと考えていると、山吹さんは笑顔になって今度はメッセージアプリを起動した。

「暮野さん、本名名義で長編小説の連載するかもしれないんだって。それでほら、透子ちゃんに言いたいけど言えないわけじゃない、透子ちゃんが落ち着くまでは連絡もできないんろうなって思って、勝手に詳細聞いちゃった」

 行動力に若干引きつつどうにか頷き、表示されたメッセージを読む。そこには確かに、山吹さんがいった通りの記述があった。わたしの話は特にしていないし、同業者同士の軽いやり取りという雰囲気だったけど、元気そうなのは伝わった

 ほっとしつつ、メッセージから視線を外した。山吹さんはiPadを自分側に戻し、

「さっきのアンソロジー、本当に買ってないの?」

 と世間話のように聞いてきた。

「買ってないけど、暮野さんの分は読んだよ」

「えっ、どうして?」

「本人に初稿のコピーもらったの」

「えーずるい!!」

 付き合っていたと言えそうな期間にもらったのだから仕方ないと弁解しつつ、

「長編書くなら、読みたいね」

 無難な本心を話せば彼女は満面の笑みになる。

「長編絶対読みたい! 長編になるとどんな話書くんだろう? ジャンルだけでも早く知りたいなあ。それで、単行本になるときは透子ちゃんに装画も描いてもらってー、デザインは私がしたいな!」

「無理でしょ……」

「無理でも夢くらい見たいじゃん!」

 また苦笑いが出た。

 山吹さんは口を尖らせていたが、ふと真顔になったかと思えば、頬杖をつきながらこちらを向いた。

「透子ちゃんと暮野さんって、私からすれば憧れの二人が付き合ってたってことになるんだね」

「まあ……ほんの一時期だけどね」

「でも、待っててくれてるんでしょ?」

「うん、頼まなくても一生待ってると思う」

 山吹さんは露骨に驚いた顔をしたけれど、急に笑い声を上げてiPadを閉じた。

 なにかと思っていると、

「暮野さんってなんだか、ちょっとマゾっぽいから、透子ちゃんに放っておかれてる方が筆が進むかもね」

 あっけらかんと言われた。それでつい、わたしも笑ってしまった。

 意味もなく笑っているわたしたちの空いた皿を下げにきた店員さんは、ほがらかな会釈をしつつも体を離しながら作業していた。


 喫茶店を出たあと、多少時間が空いていた。山吹さんもそうらしく、ふたりで商店街を歩いた。最近買った絵の額が欲しいと山吹さんは言い、わたしは彼女に見せてもらったアンソロジーを見掛けてついでに買った。

 商店街は賑わっていた。大通りは特に人が多く、なにかやっているのかと探してみれば、広場でのイベント告知の張り紙を見つけた。山吹さんはあまり興味がなさそうで、わたしもそこまで時間を取られたくはないためスルーしたが、歓声と拍手にはちょっと楽しい気分になった。

 電気屋で最新のパソコンや液晶タブレットを真剣にながめてから、山吹さんの額縁を求めて画材屋に寄った。

 絵の具を買おうかと考え吟味する。この間注文した分は使い切ってしまっていた。唸るわたしの横で、山吹さんはファンらしい女の子に話し掛けられていた。配信もしているからか、彼女はよく声をかけられる。

 長くなりそうだったので山吹さんは放置した。絵の具をいくつか選び出し、レジに持っていくと、店員さんにじっと見つめられた。三十代半ばくらいの女性で、何かと思えば藤宮透子さんですか、と聞いてきた。

 画材屋の店員さんなら、わたしを知っていてもおかしくはなかった。でも驚きはした。山吹さんとはちがい、わたしはほとんど声をかけられない。

 そうですと言いながら財布を出す。言葉を待つため一応お金は出さず、店員さんを見つめていると、急に頭を下げられた。ぎょっとした。

 顔を上げた店員さんは、なぜだか恥ずかしそうに笑っていた。

「あの、前にうちの息子に絵をいただいたのに、お礼ができなくて」

「えっ?」

「美術館で絵を描いてた、天使みたいなお姉ちゃんにもらったって、息子が。サインもあったので画家の藤宮透子さんだとすぐにわかったんですけれど、慌てて向かったらもう休憩スペースにはいらっしゃらなくって……」

 合点がいった。そう遠い日ではないのに、色々あって、ありすぎて、すっかり忘れていた。

 習作ですので気にしないでください。でもありがとうございます、息子さんにも、よろしく伝えてください。

 そのように、定型で挨拶をして頭を下げ返した。店員さんは慌てた様子でとんでもないと言って、すっかり止まっていた仕事の手を動かし始めた。

 絵の具のバーコードを読み取りながら、店員さんは目を細めてわたしを見た。

「素敵な絵を本当にありがとうございました。あの絵に描かれていた男性がモチーフの絵、他にもありますか? 息子も私も、是非もう一枚欲しいんです。さきほど習作と仰ったので、難しいかもしれませんが……」

 言葉を失っていると山吹さんが走ってきた。ごめんねーと両手を合わせながら謝り、気に入ったらしい額縁を抱えてわたしの後ろに並んだ。

 店員さんは慌てて会計を済ませた。ありがとうございましたと頭を下げた彼女に、わたしは仕事用の名刺を渡した。良ければ連絡してくださいと言い添えると、ほっとしたように笑ってくれた。

 レジ前を離れて、壁際に寄りかかる。会計に手こずっている山吹さんを待ちながら、そっと眼帯を外して、右目を閉じた。


 ふらつく視界の中に背を丸めた彼がいて、わたしは迷いなく肩に降り立った。笑い声がする。見下ろしてきた眼差しは、相変わらずどこまでも優しい。

 わたしはしばらくそのまま、暮野さんの肩にいる。存分に甘えながら、開いた羽をゆっくり休める。

 ちゃんと向き合う日のために、あなたとともに描くために。

 だから今は待っててね。

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