4

 配信の収録日はずいぶんと寒く、空には朝から暗い雲がかかっていた。天気予報によれば降りはしないらしい。それでも雪の匂いがあった。かなり冷え込むと思われたので、分厚いマフラーを巻いてから、昼過ぎに家を出た。

 収録はいつも、山吹さんの自室で行なっているらしい。でも今回は三人もいるのでスタジオが用意された。本格的な録音スタジオではなく、レンタルスペースを半日貸し切っての収録になるけど、それでも大掛かりだなと感じるには充分だった。

 現場にはすでに暮野さんがいた。山吹さんはさらに早くて一時間前からいるらしく、撮影の準備などを行なっていた。部屋に配置された二人分のキャンバスがやけにまぶしい。暮野さん用のパソコンも備品の卓上にあった。

 二人は何か会話をしていたけど、わたしが入ると同時に振り向いた。

「おはようございます、遅くなりました」

 一番遅くきてしまったので一応頭を下げた。山吹さんが笑顔で首をふり、扉前に突っ立っているわたしのところまで歩いてくる。

「全然! 予定時間より早くきてくれてありがとう透子ちゃん。今暮野さんに大体の流れを説明してたんだ、もう一回はじめから説明するね」

「うん、ありがとう。暮野さんも、おはようございます」

 わたしの視線を受けて、暮野さんは軽く微笑んだ。他所行き、という風情だ。案外と表舞台に慣れている人なのかもしれない。

 暮野さんの妥協案を思い出す。大丈夫、大丈夫だと、わたしは自分に言い聞かせながら、山吹さんの説明を聞き続けた。

「じゃあ、あと五分くらいだし、三時ちょうどに録画始めるね! 動画の編集はちゃんとするから、緊張しなくて大丈夫だよ透子ちゃん。こういうの苦手だってわかってたんだけど、受けてくれて本当にありがとう」

 ほとんど無理矢理だったじゃないのとは言わず、それなりに頑張ると月並みに返しておいた。

 部屋全体を見る。あまり向けられることのないカメラのレンズ、パソコンに繋がったいくつもの導線、ナチュラルホワイトの壁紙と、撮影の邪魔にならない位置に貼られた禁煙のポスター、天井に張り付いた主照明。自分のパソコン前に腰を下ろした、暮野さんの背中。

 じりじりと募る焦燥のようななにかを飲み込もうと息を吸った。始めよっかー、と山吹さんが明るく合図して、わたしと暮野さんは頷いた。


 妥協案。わたしの作業部屋の中に響いた言葉は、わたしたちの、ともすると赤い芋虫の、一縷の望みでもあった。

 どうしても離れたいわけではない。離れなくては描けないけれど、関係を保ったまま以前のように描けるのであれば……それが今まで描いた絵への裏切りにならないのであれば、飲みたかった。

 暮野さんは鞄の中から、わたしのスケッチブックを取り出してめくった。今日の間に返そうと持ってきてくれたものだった。

 使い切ったスケッチブックだったから、中にはいろいろな絵がくまなく描き込まれていた。彼と一緒に動物園へ行った時のスケッチも含まれており、彼は新幹線をムカデに見立てた絵でめくる手を止めた。

「透子さん、俺を蜘蛛にした雰囲気の絵も描いてくれただろ?」

 描いた覚えはあった。頷くと、暮野さんも何度か首を縦に揺らした。

「これをさ、応用できると思うんだ」

「応用……」

 暮野さんはムカデの絵のページでスケッチブックを固定した。さっとこちらに手渡してから、眉間に皺を寄せつつ、言葉を選ぶようにして続けた。

「まず俺を主軸にした絵をいつも通りに描く。それから、俺の部分だけを別の何かに描き変える。もしくは俺の部分だけを消し去って、完成させる。……だから多分、キャンバスに直接描くんじゃなくて、パソコンで描くことになる……とは思うけど、透子さんはデジタルの絵も描いてたから、これは問題ないだろ?」

「はい、デジタル絵への移行自体に問題はないです」

 しかし、他の問題がある。

「透子さんが技術じゃなくて感覚とかセンスとか、なんならその時の感情とか、他では表せなかった何かしらで絵を完成させてるタイプだっていうのは、俺にもわかってるよ。だからこれは、必ずうまくいくとは思ってはない。でも透子さん、あんたの絵を見るのは、俺だけじゃない。……山吹さんが言ってただろ、たまに、手癖で書き上げてから癖を修正するって旨の話を。あれに似たことを、してほしい。透子さんは描写能力自体は異様に高いから、できると思う。それで、あんたのファンが納得してくれるんなら……」

 暮野さんはそこで言葉を止めた。なにが言いたいのかは、痛いほどわかった。彼はそもそもわたしと離れたくなくて、この妥協案を出したのだ。

 手元のスケッチブックを見下ろした。ぱらぱらと捲り、描写されている風景や虫たちを、どこか懐かしい気分で眺めた。これらはまだわたしの鏡になってくれるのだろうか、愛想を尽かされていないだろうかと、胸の内で問いかけた。

 答えは要らなかった。暮野さんに向き直り、やってみると告げた。彼はほっとした顔を一瞬作ったけれど、すぐに引き締めた。

「もしこれで、あんたのファンが離れていったり、透子さん自体が余計に苦しくなったりしたなら、……その時は俺も潔く引きます」

 逡巡してから、頷いた。離れたくないのはわたしも同じだった、しかし離れた後に生じると思われる、穴に落とされたような深い感情が、自分だけが自分と向き合う空間が、今まで通りに描くためには必須だった。

 しかしそれをしないままの絵を、見てくれている人たちが好んでくれるのであれば、やってみても構わなかった。

 暮野さんの案通りに絵を描いた。はじめはバランスがうまくいかなかったが、何度か練習すればそれなりになった。更に枚数を重ねると、違和感はどんどん減っていった。

 技術を意識する場面はあまりないまま描いてきたけれど、こうして俯瞰してみれば、技術面に頼る描き方も出来ないわけではなかった。

 仕上がった、暮野さんだけをあとから消した風景画を、SNSに投稿した。普段はあまりしないけど、作品への感想を検索していくつも見た。暮野さんも一緒に調べてくれて、あまり良くなかったとされる感想と、ここがいいとされる感想をある程度統計として出した。

 以前の投稿作の感想や批評でも同じことをした。照らし合わせてみて、ほとんど差異がないと、前までと同じく受け入れられたと、データが示してくれた瞬間、わたしではなく暮野さんが安堵の息を吐いた。

 数百枚の調整はおこなっていた。暮野さんはプリントしたわたしの絵を見て、綺麗な絵だよと、半分ほど泣きそうな顔でわたしに言った。

「二度と会わないか死ぬかしろなんてさ、どっちかをどうしても選ばなきゃいけないなら、死ぬ方がマシかもな」

「……そうですか?」

「うん、そうすれば……」

 暮野さんは黙り、絵をすっと差し出してきた。受け取ろうと伸ばした手は捕まった。

 引っ張られて抱き締められ、腕の力強さにおどろいた。離れなくていいだろと切実そうに囁かれて、困りながらも、離れなくていいですと返した。

 わたしたちは試行錯誤の残照の真ん中でしばらく抱き締めあっていた。


 配信の録画が終わり、作業があるからと山吹さんに言われて、解散した。配信日は改めて伝えると言い添えた山吹さんにお礼を言って、わたしと暮野さんはすっかり暗くなった道を歩いた。

 どこかに寄ってもよかったけれど、お互い終わらせたい仕事があった。連絡をすると暮野さんは言い、わたしも一段落してから返すと約束し、途中で分かれた。

 雪は降らなかった。寒さは昼間よりも当然するどく、時折吹く突風が痛かった。底冷えした街はしずかに凍りつつあった。帰宅を急ぐ雰囲気の人と、何人もすれ違った。

 家に着く手前でスマホが鳴った。山吹さんからのメッセージだった。忘れ物でもあったかと、それとも彼女のことだからもう配信の目処がついたのかと、玄関前ですぐに開いた。

 画像が載っていた。今日の録画中、山吹さんの決めたお題で描いたわたしの一枚絵だ。アナログなので妥協案で描けるか不安だったけれど、おおむね上手くはいっていた。配信のために、アナログでも描けるよう、何度か練習していた。

 なぜ送ってきたのか、聞くひつようはなかった。次のメッセージが来るまでにわたしは気が付いていた。

 わたしの描いた絵ではなかった。酷似しているけれど、最後にふったサインがなかった。

 呆然としている間に、山吹さんからの続投が来た。


『透子ちゃん。私がトレースできる絵しか、描けなくなったの? 心配です、なにがあったんですか?』


 なにも返せないまま、しばらくのあいだ立ち尽くしていた。立ち尽くすしか、なかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る