3

 早朝の作業部屋で真っ白なキャンパスに向き合った。息を吸い込み、吐き出し、また吸い込んで、止めた。それから全体に色を乗せた。秋の山々を背景にした男性の絵は、問題なく順調に描かれていった。

 一気に息を吐き出した。深呼吸を繰り返してから筆を置き、絵を眺めた。出来の判断はしかねたけれど、完成はした。絵の中の暮野さんは肩に赤い芋虫を乗せていた。名前の通りに暮れた野原に立っており、振り向きながらわたしをじっと見つめていた。

 絵を台から取り外し、適当な場所に立て掛けた。まだ乾ききっていないけれど布をかぶせ、わたしは洗面台で手を洗いながら鏡を見た。

 左目が、前よりも赤い気がした。

「ここにいるの?」

 鏡越しに目を見つめて話しかけるけれど、芋虫の気配はどこにも感じられない。もうすっかり馴染んでしまって、膿んだような痛みだけが、じくじくと残っている。

 溜め息が勝手に漏れた。洗面台を離れて時間を確認し、閑散としたキッチンに身を滑り込ませた。


 暮野さんがやってきたのは、わたしが食パンを焼いている最中だった。

「透子さん?」

 彼は不意をつかれた顔をして、オーブントースター近くに座り込むわたしを見下ろした。

「なにしてるんだ?」

「パンを焼いています」

「いやそれはわかるけど、言ってくれれば、来る途中になにか買ってきたのに」

「いえ、いいんです」

 チンと軽快な音が響く。中から焼けた食パンを二枚取り出すと、暮野さんは目を瞬かせた。

「あの、一緒に食べましょう」

 腕を引いて食卓につかせ、一枚は暮野さんの前に置く。なにが好きかあまりわからないので、マーガリンといちごジャムとケチャップとポン酢を置いた。わたしは特になにもつけずに齧り始めた。芳ばしさだけで、噛み続けた。

 暮野さんは戸惑っていたけれど、いちごジャムを選んで塗った。

「もしかしてさ」

「はい」

「俺のためになにか作ろうとしてくれた?」

 頷きかけてやめた。わたしはほとんど料理ができないし、彼のためというよりは、わたしがふたりで何かを食べたかっただけだ。そのように伝える。暮野さんは小さく笑って、ありがとうと言ってくれた。

 じわじわ恥ずかしくなった。食パンの耳を剥がして残し、一旦キッチンへと逃げ込んだ。

 落ち着いてから電気ケトルを持ってきて、インスタントコーヒーを二人分淹れる頃には、暮野さんもパンを食べ終わっていた。

 彼の視線はわたしがお皿に残したパンの耳へと向いた。食べ残しを見られるのは居心地が悪く、でも食べる気にもならないので、それとなくずらして視線を払った。

「きてくれて、ありがとうございます」

 正面の暮野さんに向き直り、あらためて話しかける。話があると呼び出したのはわたしだった。

 暮野さんはコーヒーを傾けながら

「あんたに呼ばれれば来るって」

 と照れたように言った。照れが伝わり、つい視線を下げてしまった。

「わたしだって呼ばれれば行きますが、そうではなくて、……お願いがあって、呼びました」

「うん、なに?」

「二度と会わないか、いっそ死ぬか、どちらかをしてほしいのですが、いいですか?」

 暮野さんは固まった。もう一度どちらがいいか聞けば、ちょっと待てと制止をかけられた。

「それ、断ったら、どうなるお願いなんだ? というかむしろ、いや透子さんが突飛なのは、今に始まったことじゃあないけど、それにしても唐突すぎるだろ」

「そうでしょうか」

「すぐにわかったって返事するやつの方が少ない二択だよ」

「じゃあ、だめなんですね……」

 なら困ったことはまだ続いてしまう。落としたままの視線でテーブルを撫でつつ、どうしようと考えるがふっと左目が痛くなる。

 暮野さんに会えばいつもずきずき痛む。彼を前にすることで、芋虫の気配を感じ始める。あの赤味はまだ中にいる。

 口が勝手にゆっくり開く。

「実は、スランプになりました」

 漏れた言葉に、暮野さんはえっと大きな声を上げた。

「なんで急に……いや、」

「お察しの通りに、十中八九どころかほとんど暮野さんが原因だと思われます。わたしの生活で変わった部分といえば、あなただけです、暮野さん」

 本当は暮野さんをつよく慕う芋虫を戻してしまい、その感情が移り込んだせいだと伝えるべきだったけど、知られたくないので伏せる。

 それに今はわたしの感情だ。描けなくなったことで、いっそう自覚しはじめている。彼をわたしのものにしておきたい。ずっと隣りにいてほしいし、どこにも行かなくていい。

 藪中さんの言ったようなことはできない。彼を描いた絵画すら、わたしは他人に見せたくないのだ。

 そんな自分が気持ち悪い。

 だからもう、暮野さんごと焼き払ってしまいたい。

 暮野さんはむずかしい顔をして黙っていたが、ふと思いついたように席を立った。

「なあ、透子さん。俺に絵の巧緻はわからないけど、あんたの絵なら違いがわかるかもしれない。描いて、見せてくれないか。……もちろん、じゃあ別れて一生会わないって言うべきなんだろうけども、俺は、まだ透子さんに会いたいんだ」

「……描くのはかまいませんが、描いてみせてあなたが問題ないと言ったところで、わたしが納得するとは限りませんよ」

「でも諦めたくないから。一目惚れだったんだ、横顔が綺麗だと思った。ちょっと風変わりで芸術家肌で、でもとっつきにくいわけじゃなくて抜けてて可愛いところもあって、絵だって俺にもわかるくらい魅力的で……だから、とにかく、あんたが納得しなくてもこのままじゃあ俺の気が治まらねえよ。透子さん、描いてくれ」

 暮野さんにしては珍しい荒っぽさで捲し立てられ、おどろいた。同時にものすごく口説かれて、芋虫越しに見ていたとはいえ、本当に初対面の時からなのかと実感した。うれしい、と反射で浮かべた。しかし唇をむすんで言及は避け、描画については了承した。

 穏便に離れられるのであればその方がいい。わたしに特別な相手はいらないと、絵が描けなくなるのであればなおさらだと言い聞かせながら、暮野さんを作業部屋まで連れて行く。


 スケッチブックを開き、水彩用のパレットを手に取ってからは早かった。

 わたしはほぼいつも通りのスピードで、隣にいる人の絵を描いた。暖色を基調に色を塗り、乾かしもせず差し出した。暮野さんは驚いていた。絵を見て、わたしを見て、別れるか死ぬか選べと言った理由を悟ったように、複雑そうな顔をした。泣きそうにも見えた。

「透子さん、すごくよく、描けてると思うよ」

 絵を見下ろしたまま、彼は呻くように言った。

 わたしもそう思う。先に同意してから、首を振る。

「よく描けていても、それじゃあなにもかもだめなんですよ暮野さん。わたしはあなたしか描けないようになっても、あなただけを描きたいわけではないんです。今まで通りに虫たちを描きたいし、季節ごとにうつろう景色を塗りたいし、それらをひとりきりのこの家で、たったひとりで向き合いながら描けなければ、なんの意味もないんです。だって暮野さん、あなたがいるだけで事足りるなら、絵すらいらなくなっちゃうかもしれない。そんなわたしは、わたしが嫌です」

 暮野さんはふっつりと無言になった。わたしも口を閉じ、彼の言葉をしずかに待った。冷えた匂いがした。作業部屋の窓から、木枯らしにふるえる青空が見えていた。覗く木の枝が炭のように黒かった。

 どこを切りとっても彩度が低く、寒くてしずかで寂しい季節だ。黙り続ける暮野さんの沈んだ表情と、俯き加減の顔にかぶさる長い前髪が、余計に物悲しくうつって見える。

 さみしい。でもこのさみしさが、今のわたしには上手く描き出せない。

 目が痛い。

「……、妥協案が、なくはないんだ」

 やがて彼は絞り出すように話し始めた。はじめて聞く、すがるような声だった。

 わたしはそれを黙って聞いた。妥協とは言われたが、そう悪くない提案だと思った。

 この時は思った。

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