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マフラーをぐるぐると巻き、近場の公園に出掛けた。子供の姿はなく、色づいていた紅葉はいつの間にか枯れ落ちて、空間全体がぼんやりと暗かった。どこを見ても、冬の気配が匂っていた。
ベンチは冷たかったけど、腰を下ろした。正面に見える景色は平凡で、ブランコや滑り台はしずかな鉛色だった。あたりの彩度は曇り空もあいまって、ワントーン低くなっている。鉛筆画にはいいだろう。
持ってきたスケッチブックを開いた。見えた景色をそのまま描き写す作業は、三十分もあればあらかたまとまった。出来は悪くもない、そして良くもない、見慣れたいつもの絵が紙面にあった。
景色から視線を外し、ここにはないものを描いてみる。飼育しているレッドランプ、夏に鳴いていた蝉、無数に飛んでいたカゲロウと、記憶した虫たちは問題なく描けた。
動物園の一角で見た虫たちを描こうとすれば、止まった。思い出されるのは行動を共にしていた暮野さんの姿で、孔雀を見て三島由紀夫の話をした横顔で、朝食をとりながらわたしを案じてくれた真剣な表情だった。
紅葉や銀杏の美しかった園内が、すべて彼の背景になっていた。
それでもどうにかしようと、むりやり腕を動かした。ほとんど息を止めていた。何も思い出さないよう無心になって、芯を走らせ続けていれば、スケッチブックに絵は描けた。考えるまでもなく駄作だった。
息を吐き出し、鉛筆を置く。一度咳き込み、左目を押さえながら頭を振った。それで追い出せるなら苦労はしない。暮野さんのことも、芋虫のことも、なにひとつ好転しない。
立ち上がり、家に戻った。戻ったというか、いつの間にか帰ってきていた。マフラーをぐるぐるに巻いたまま、ソファーでぐったりしていることに、遅れて気付いた。何分くらいそうしていたかはわからなかった。
のろのろと起き上がる。おなじ鈍さでマフラーをほどき、コートを脱いだ。くしゃみが出てから寒いと自覚し、年中出しっぱなしのストーブをつけようとしてやめた。灯油がなかった。エアコンの暖房をつけてから座り直したところで、重たいため息がこぼれた。
どうしよう、と声に出た。わたしには相談できるような相手がほとんどいなかった。
なので、不意に届いた藪中さんからのメッセージに、縋る思いで返事をした。
夜のレストランは混んでいた。藪中さんは中央あたりの席でわたしを待っていた。着崩したダークグレーの背広は、個展のときにも見た格好だった。なんの問題もなかった頃を思い出し、すこしだけ焦がれた。
店員さんに案内してもらい、彼の近くに寄った。藪内さんはわたしを見て、久しぶり、とまずは言った。快活な声だった。
「はい、お久しぶりです。遅くなり、すみません」
「まさかまさか、藤宮さんが忙しいのは知ってるよ! 個展はありがとう、盛況だったしいいお盆が過ごせた」
「いえ、その節はこちらこそありがとうございました」
藪中さんは形式的な挨拶にわははと笑い、ここは煮込みハンバーグがうまいよと続けながらメニュー表をわたしに差し出した。
受け取りつつ席についてから、改めて目の前を見る。無精髭、に見えるように調節されたまばらな髭が、とても様になる男性だ。年齢は十歳以上、彼が上だろう。
だからこそ、こうやって会いに来たのだけれど、まともに顔を合わせるのは個展以来で、ゆるやかに緊張する。経営する画廊は今もまた違う企画をしているらしく、忙しい中で時間を作ってくれたようだった。
直接会いたいと言ったのはわたしなのだ。
「それで、どうかした? 俺の用事はメッセージで充分済んだが、深刻な話かい?」
中々切り出せないでいると、藪内さんから水を向けてくれた。
「いえ、はい、……その、わたしにはあまり、相談ができるような友達がいなくて、つい、タイミングよく連絡をくださった藪中さんに……」
「ああまあ、人生の先輩ではあるからなあ。とは言っても限度はあるけどね、答えられそうなら話ぐらいはなんでも聞くよ」
「ありがとうございます、本当に助かります」
さっと頭を下げてから、
「絵が描けなくなって困っています」
早速相談すると、藪中さんは数秒ぽかんとした。自分のひとまわりは年上の男性がぽかんとする顔をはじめて見て、ちょっと興味深かった。
「えーと、スランプになった、ってことかね」
ぽかんを解除しつつ、彼なりに咀嚼してくれた。うなずいて肯定し、運ばれてきた煮込みハンバーグをちらりと見たが、藪中さんのサーロインステーキがまだだったので先に説明を始めた。
芋虫の話や暮野さんとの話、いなくなった家族についてや山吹さんの企画する配信の件までを順番に聞かせていくと、藪中さんの眉間には段々と皺が刻まれていった。
ステーキが届いた。一旦話を切り食事を促すが、彼はナイフを持たなかった。
「藤宮さん、俺は画廊なんてやってるけど、芸術品ってのが闇雲に好きなだけでさ。審美眼に自信があるってこともないし、当然描く方面に関しては全くの素人だ。それでも思ったことはあるから、一応話すね」
「はい、お願いします」
藪中さんは数回うなずき、
「俺はそもそも、初めて見た君の絵があれだったから、どうしても画廊にきて欲しくて呼んだんだ」
と慎重な声色で教えてくれた。
あれ。この言い方でも、わたしにはなんのことか、よくわかった。
あれは、わたしの描いた中で最も評価されている絵だから。
「ま、そんなわけでさ」
藪中さんはおもむろにナイフを持ち、ゆっくりと肉を切り始めた。断面から、コーラルピンクの肉汁がこぼれている。
「すごい絵だなと思ったよ。月並みで悪いけど、藤宮さんにしか描けないだろうなと思った。赤色が映えるどころじゃなく鮮烈で、……いや俺の批評なんてどうでもいいな、あれは、あの作品は確か、賞をとってただろう」
「はい、いただきました」
「四年か、三年前だったかな」
「四年です。半年以上かけて描きました」
藪中さんはすっと目を細めた。彼が何を言いたいのか、わたしにはもうわかっていた。
「お察しのとおり、わたしは絵を描くことでずっと自我を保っていたような人間です。家族が存命の頃も、ほとんどひとりで絵と向き合っていました。弟は懐いてましたし、その頃から結果も出てはいたので、美術方面の仕事に懐疑的だった家族も軟化しつつはありました。そのうち家を出るつもりだったんです。わたしの絵は見てくれる人がいなければ成り立ちませんが、わたしの描き方は人がいると成り立たないのだと、うっすら感じてはいましたが家族が死んで、少しだけ、変わりました」
「変わった?」
「はい。誰かがいないのは、人並みに寂しいんです。だからひとりで絵を描いていたんですよ、寂しさをまぎらわせるために描かなくてはいられないようにしてました。家族が死んでわたしはとてもさみしかった、本当にさみしくて、声のない一軒家はとてもさむくて。さみしさを塗りつぶそうとして、家族の死後に初めて描いた絵が、賞をいただきました。でもいまはあんなふうに絵が描けない。さみしかったときの気持ちがわからなくなっています」
どうぞ食べてください。ふたたび促すと、藪中さんはやっと一口食べた。わたしもすっかり冷めたハンバーグを口に運び、ふっくらした食感にさすがおすすめされただけはあると感心した。デミグラスソースも、ちょうどよく肉に馴染んでおいしかった。
食事が済んでから、藪中さんは慎重な様子で口を開いた。
「暮野さんって方とただ単にお別れするだけじゃあ、解決しない?」
瞬き一回分考えるけど、左目がずきりと痛んで頷いた。
「意味がわからないと思うんですが、左目を抉り出すか暮野さんとお別れするかの、二択になります」
「うん、全然わかんないや」
冗談めかして返され、つい笑みが漏れた。藪中さんも一声笑い、食後のコーヒーを二人分注文してくれた。
「全然わからないけど、現状じゃ構図や彩色なんかがまるで思いつかなくて、単純な写生やむやみなラフスケッチしかできないわけか」
「はい、でも」
「まだ何か問題あんの?」
「いえ、……その、暮野さんなら、描けます」
藪中さんは二度目のポカンを見せた。そんなに呆気にとられることだろうかと、つい見つめてしまった。
彼は届いたコーヒーを飲んでから、
「あの藤宮透子先生にそこまで想われる男の顔、ちょっと見てみたいな。ついでに君の描く人物画にも、興味あるよ。……それで、今この場で描いてみて欲しいって言ったら、怒るかい?」
そう低姿勢に聞いてきたので、また笑ってしまった。
「いいですよ」
「あ、いいんだ?」
「はい、ちょっと待ってください」
テーブルに備え付けられていた紙ナプキンを抜いた。鞄からボールペンを取り出し、胸元までの人物画をざかざか描いて、藪中さんの前にさっと差し出した。彼は感心したような声を上げてから、片眉を引き上げつつ首を捻った。
「……この彼、藤宮さんの個展に来てた?」
「はい、来てくれました」
「そうかそうか、若干引っかかってたけどスッキリした」
藪中さんは昼間のような晴れやかさで笑いつつ、暮野さんの描かれた紙をわたしに返した。
何が引っかかっていたのか聞いてみると、首を振ってからこう言った。
「充分絵になる、雰囲気のある男だからさ。完全にそっちに舵を切るのも、まあ悪くはないんじゃないのかってこと。藤宮さんの赤い絵画が俺は好きだけども、本気で描かれた肖像画を見てみたい気持ちも確かにあるよ。モチーフはずっと同じじゃなきゃいけないって決まりもないしなあ、この世には同じモデルの肖像画だけを描き続けた画家なんかも存在するわけだしさ。今からか人物画方面に変えたとしても、君はまだ若いんだし、心機一転の意図を発信すればファンはそれなりに納得するだろう。だから、暮野さんがモデルになって拡散されても構わないって言ってくれた上でなら、この方向性でもいいんじゃないか?」
否定の言葉は浮かんだけれど口には出せず、コーヒーを飲んで誤魔化した。
暮野さんはわたしのものだからと、反射で浮かべたこと自体が、どんどん怖くなってきた。
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