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 完全個室の居酒屋は、居酒屋ではなくダイニングバーと呼んで欲しそうな佇まいだった。

 客席すべてに仕切りがあり、出入り口はカーテンで覆い隠されている。隠れ家レストランなどの部類だろうか。密やかな空気が流れており、どこかしら洋風で、アルコールも日本酒や焼酎より、ワインやカクテルが多かった。

 この店を選んだ山吹梢は誰よりも先に着いており、ひとりでルイボスティーを飲んでいた。

「あ、透子ちゃん! kurenoさんも。一緒にきたんですか?」

「いいや、店の入り口で偶々会った」

 暮野さんは即座に切り返し、山吹さんの正面に座った。わたしはためらったけど、山吹さんの隣を選んで、コース内のアルコール表を手に取った。

 壁には絵画のレプリカが飾ってある。名前や値段が張りはしない、店をそれらしく見せるための抽象画だ。その近くに飲酒運転への注意喚起ポスターが貼られていて、デフォルメされた事故のイラストが目を引いた。

 暮野さんを見る。一瞬視線は合うが、すぐに逸らされた。それにやきもきし始める自分にため息を吐きたくなったがお冷を飲んでごまかした。

 店に向かいながら一緒に歩いた数分前が、すでに恋しくなっていた。

「とりあえず乾杯しましょう! 二人とも、来てくれてありがとうございます、どうぞよろしくお願いします!」

 いつも通りのよく通る声に合わせて、わたしたちは揃ったグラスをぶつけあった。

 唯一あった米焼酎の水割りを飲みながら、配信の話だ、と脳をどうにか切り替える。いわば仕事の関係での、事務的な集まりだ。友達同士の飲み会ではけしてないし、暮野さんとふたりきりでもない。しっかりしなければ。

「まずはじめに聞こうと思ってたんだけど、配信って具体的に、わたしと暮野さんは何をすればいいの?」

 気持ちを改め問いかけると、山吹さんは笑顔になった。

「色々考えてみたんだけどね、せっかく透子ちゃんが来てくれるんだから、公開ドローイングが一番いいかなって思ってるの、どう?」

「わたしはいいけど、それだと暮野さんの立場があまりない気がするよ」

 言ってから、わたしが暮野さんを巻き込んだ形になっているのだと思い出したけど、

「派手さはないけど、俺もドローイングに似たことはできるよ」

 そうフォローしてくれてほっとした。

 山吹さんは笑顔のまま、ああ! と声を上げた。

「一時間で書けるだけ書く、みたいな即興ライティングですよね?」

「うん、俺はした記憶はないけど、締め切りギリギリを体験できそうな作業だなと思ってた」

「あはは、そうかも。ほらシナリオって、ある程度の世界観とかキャラクターデザイン込みで考えるから、あらかじめプロットを作る……なんだろう、二次創作っていうんですかね、ああいうのに近そうだなと思ったんですけど、即興だと純然なオリジナル小説に寄ってる気がします。逡巡を経由しないから、浮かんだ順に文字を打ち出しているに過ぎなくて、でもそのショートカットありきの物語は組み上がるんですよ。手癖の確認とも取れますね、私は上手い方の書き方をたくさん覚えて書いているモノマネばっかりだし、それがセールスポイントでもあるから、たまにやって軌道修正するんです。癖がついちゃうと台無しになるので」

 山吹さんはにこにこと笑ったまま一気にそう言った。気の遠くなりそうな話だったと思いつつも、彼女はどちらもプロの存在だったと改めて感心した。似たような話を、絵に関して行っていた記憶がよみがえる。

 ちらと暮野さんを見る。少し引いている気もしたけど、穏やかに笑っていた。琥珀色のビールを傾けながら、面白い練習法だね、と否定も肯定もしなかった。

 山吹さんは満足そうにうなずいてから、隣のわたしに矛先をふたたび向けた。

「透子ちゃんもデッサンがすごく早いし、一時間でテーマに沿った絵を一つ描くのはどうかな? 暮野さんにも何かしら書いてもらって、完成品は全部そのあと、動画編集で公開する方向なら二人のファンも納得してくれると思うんだ」

 コース料理のシーザーサラダを齧りながら、ちょっと考える。山吹さんはなにがたのしいのかずっと笑顔だ。暮野さんは、心配そうにわたしを見た。

 あまり気が進まなかった。でも、おそらく何を出されても気が進まない。

 なら、一時間描いているだけで終えられるこの提案はいい部類の企画かもしれない。

「……うん、それでいいなら、わかった。ドローイングの練習、しておくね」

 了承すると山吹さんはわたしの手を感激したように握った。思いのほか冷たい手でびっくりしている間に、透子ちゃんが練習するなら私も頑張るね、一緒に絵を描くの久しぶりで嬉しい、録画を編集してからの配信だから緊張しないで描いてねと、矢継ぎはやに色々まくし立てられた。

 冷えた手に充分体温を吸われてから、解放された。配信の話は一旦終わり、彼女はコースのメインであるもつ鍋が美味しいのだと言って、火をつけてもらうために店員さんを呼んだ。

 鮮やかな緑のニラが目を引く鍋は確かに美味しそうだったけど、食欲自体は死んでいた。ここに来てからろくに食べてもいない。満腹を感じる器官が、すでに音を上げている。

 疲労感だ、山吹さんと話すと、いつもひどく疲れる。彼女の才能に気後れしている部分を前提として、性格自体が異様に合わないからだと、気がついた。

「透子さん」

 呼ばれてつい驚く。暮野さんは膝立ちになり、鍋をとり分けるよ、と山吹さんにも目を配りながら言った。ぼんやりしている間に、煮えていたようだった。

「わっすみません! 私はなんでも食べるので、透子ちゃんから!」

「え、いえ、わたしもなんでも……」

「ハツと砂肝が好きって言ってただろ、じゃあモツも好き?」

 好きですと反射で答えた。暮野さんは小さく笑って、モツを多く盛ってくれた。湯気を立てる様子は美味しそうで、ほんの少しだけ食欲が戻ってきた。

 器を受け取るために伸ばした指先が触れ合った。暮野さんの手は、とても温かかった。


 帰り道が違うので、暮野さんとは店の前で別れた。山吹さんは駅に向かうらしく、途中までは一緒だった。

 彼女は背景画を担当したテレビ番組の放送日や、スマホゲームの外伝シナリオが配信される予定などを話していたけど、不意にふっと真顔になって立ち止まった。駅まであと五分というところだった。

「透子ちゃん、暮野さんと仲が良いんだね」

 同じように立ち止まり、山吹さんを見上げた。駅が近く、街灯の多い界隈だったけど、人通りはあまりなかった。冬特有の乾いた風が吹き、鼻の奥が寒さできんと強張った。

 山吹さんの顔が、あまり見えなかった。でも笑ってはいないようだった。

「仲は……悪くはないけど、それが?」

 正直に、でも曖昧に答えると、白い吐息が彼女の口元をしずかに覆った。

「あのね、透子ちゃん。いい意味でも悪い意味でもないんだけど、透子ちゃんって、人を寄せ付けないようにしてる人だったから、意外で」

「……友達くらい、出来るよ。山吹さんだって、わたしの友達でしょう」

「うん、だからだよ。透子ちゃん、ずっと暮野さんのこと気にしてたから。なんで隠すのかなって不思議だっただけで。こんな透子ちゃん見たの初めてだから、ちょっと心配なだけ」

 山吹さんはそこまで言ってから、ごめんね、と頭を下げた。向き直った時にはいつも通り、明るさに特化した笑みを浮かべていた。

 駅へと歩いて行く背中を見送った。わたしはバス停まで行き、ゆったり走ってきたバスに乗り込んで、自宅付近までじっと揺られた。

 振動に身を任せながら瞼を閉じて、暮野さんを思い浮かべた。芋虫の目で眺めていた彼の姿を、まぶたの裏側に、連れてきた。

 切るのが面倒だと伸ばしたままの髪が、なんだかかわいくてくすぐったい気分になる。机に向かってのめり込むように書く背中がとても無防備で、気が付くとつい見つめている。暮野さんは芋虫越しにわたしを話す。その時の嬉しそうな顔と優しい声色をいつまでも覚えていられる、気がする。

 たぶん幸せだった。でもだめだった。

 配信に向けて練習しようとペンを握ったわたしは、何を描けばいいのかどう描けばいいのか、まったく浮かばなくなっていた。

 山吹さんの言葉の意味が、はっきりわかって項垂れた。

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