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何度も無視した電話をとって、遺体の確認をお願いしたいと警察か医者に頼まれた。訪れた夜の病院は静まり返っており、独特の匂いがして、非常口の案内板がやけに鮮やかな緑色で、霊安室に向かうわたしの足音が大きく響いていた。
どこを向いても暗かった。現実の中で最も非現実な場所に見えた。白い布がかぶさって、などと描写されているのを小説で読んだ記憶がよみがえった。家族の遺体は寝袋のようなものに包まれていた。
中は黒かった。影になって暗いのかと思ったが、違った。焦げて爛れているだけだった。
炭化した部分は確認もなにもなかったけれど、熱さで庇ったのか全員顔はある程度無事だったので、判別は難しくなかった。本人だとわたしは告げた。痛ましいものを見る目を向けられた瞬間の奇妙さは、描いてみようにも難しかった。
弟の遺体がいちばんきれいだった。なぜか、眠るように目を閉じていた。それでも腕は黒くて、さわるとかたそうで、痛そうだった。
ああそうだ痛そうだった。車は正面衝突して、ガソリンに引火してどちらも燃えて全員燃えた。頭をかばったのだろうけど無駄だった。足元は三人とも炭化していて黒かった。
雨が降る、夕方の話だった。
空も車も、雨粒なんて目もくれず、きっと真っ赤に燃えていた。
想像の中でわたしはそれを眺め続けた。
暮野さんを虫部屋に案内した。彼は緊張ぎみだったけど、メキシカンレッドランプもロイコクロリジウムも土の中でねむるカブトムシの幼虫も、興味深そうにながめていた。
隣にぴたりと寄り添い、各々に餌を与えた。カブトムシの土もあたらしいものに取り替えて、餌を豪快に食べる蜘蛛を見つめてから、部屋を出た。暮野さんの手を取り、居間をまっすぐに歩いた。
雨が止んでいたので庭先に案内した。ろくに植物を育てていないけど、虫の墓はたくさんあった。ふたりで墓の前にしゃがみこみ、並んで手を合わせた。晩秋の風が枯れかけの匂いを連れてきた。
下手に埋葬してしまうと生態系が変わるかもしれず、飼育していた虫の死体は埋められない。だから、庭の墓は、玄関や家の中で死んでいた子たちだ。ひっそり死んで、乾いていた。わたしはいつも悲しかった。
「虫はすぐに死んでしまうと思っていました」
話し出すと、暮野さんはしずかにわたしを見た。
「でも五年前にあらためました。世の中、すぐに死んでしまうものばかりですね」
「……うん、それは、そうだ」
「なのでわたしは、余分な悲しさがいらないんです。まわりに目を向けすぎることは、無駄なことだと知りました。絵を、わたしの好きな虫や毎日ちがう表情の景色を、描き続けていければなあと思っていたんですよ、暮野さん」
「過去形?」
頷いてから立ち上がる。暮野さんはしゃがんだままで見上げてきた。陽がわたしの背後にあるので、まぶしそうに目をすがめた。
「赤い芋虫、どこにいるのか聞かないんですね」
「聞いてほしくなさそうだから」
すばやく返されて少し困った。わたしの困惑がわかるらしく、暮野さんは小さく笑ってから、一言謝った。
ふたりで部屋に戻った。ソファーに座り、じっと寄り添って過ごした。とても落ち着く時間だった。ゆっくりと夕暮れがおとずれて、部屋が暗くなるにつれ、帰ってほしくない思いが膨らんでいった。
自分の聞き分けのなさに、今度は苛立ってきた。思わず左目を掻きむしるけど、暮野さんがやんわり止めた。
「どこかに食事でも、しに行こうか」
おもわず、暮野さんの腰に両腕を回した。まだ離れたくなかった。彼は慣れない様子で顎をさすり、透子さん、と宥めるように呼んだ。
それではっとして離れた。
「すみません」
「いや、……まだいてもいいならいるけどさ、この家、冷蔵庫が半分くらい虫の餌だろ……?」
「いいえ。八割くらい、虫の餌です」
正直に言えば九割だったが、すこしだけさばを読んだ。ばれたのかどうか、ぶは、と堪え切れなかったように笑われた。
暮野さんは肩を震わせて笑いつつ、むくれるわたしを宥めるように、そっと手を握ってきた。
「笑ってごめんな、でも透子さんらしくって。さすがに俺は、アカムシとか冷凍マウスとかは食えないからなあ」
「食べたいと言われても、だめですと言います」
「うん、だからさ、どこかで何か食べて、また戻ってこよう。それでいい?」
納得して、今度こそごねず先に立ち上がった。並んで家を出るともうすでに暗く、寒かった。
暦の上ではもうすぐ立冬だと、ジャケットの前を閉めながら暮野さんが言った。
冬眠するいきものを思いながらわたしは頷いた。
食事をしてから暮野さんを連れ帰り、次は作業部屋に連れていった。描きかけの絵や、描いたけれどどこかに出してはいない原画、過去に描いた絵の写真などをいくつも見せた。わたしのことをたくさん知ってほしい思いに駆られていた。暮野さんはいろんな絵を見て、特に好きなものはこれだと教えてくれた。うれしかった。前に賞をもらった絵も、見ているだけで勝手に胸が打たれると褒めてくれた。
「暮野さんはわたしの画集、買ってくれてましたね」
使い切ったスケッチブックを開きながら、とまらなくてまだ話した。
「わたしも暮野さんがシナリオを書いたゲーム、いくつも見ました。ラジオドラマも聴かせてもらいました、あれは朗読されている声優さんの声質に合わせているんですか? とても、合っていました。あなたは書き分けが異常ですし引き込もうとしてくるので、勝手に集中して移入してしまいます。ホテルでわたしの代わりに返事を書いてくれたときも、わたしのような文面が出来上がっていて本当に驚きました。暮野さんは、なかなか真似できない、貴重な才能があると思います。あなたの作品がわたしはとても好きです。依頼されてるとおっしゃっていた短編小説も、はやく読みたい」
困っているふうの彼の膝にスケッチブックを載せる。旅行先で撮った写真を見ながら描いたラフスケッチばかりだけれど、共有してほしくてたまらなかった。
暮野さんは湖の描かれたページを見つめ、綺麗な絵だと呟いてから、わたしに横目を向けた。
「このスケッチブック、よければ借りていい?」
予想外の言葉だった。
「いいですけど、なぜでしょう」
「ああいや、……なんだろう、寂しいから、が近いかな」
寂しい。見つめ返すと、苦笑いが投げ返された。
「部屋の中でずっと、透子さんの芋虫と喋ってたから。家に透子さんの匂いが……気配が、無くなっちまって。急に一人になる時って、こんな気分なんだな。得体の知れない洞穴が、見えないところにできたように感じるよ。だから透子さんがいなくならないように、関連するなにかを、持っていたくて」
気がついた時には腕を伸ばして抱いていた。暮野さんの体は思いのほか男性で、骨や筋肉が硬かったし、抱き返してきた腕は長くて力強かった。種類の違いをにわかに知ってどこかが痛んだ。
わたしもさみしい。五年前からきっとさみしい。でも思い出さないようにして、生きていたときの両親が立ち並ぶ姿や懐いていた弟の細部をしまい込んで、赤く塗り潰し続けていた。
暮野さんは黙ってわたしを抱き返した。すべて口に出していたと、それで気づいた。撤回もできずにしがみつく自分をうまく俯瞰できなくて、じわじわ怖くなってきた。
本当にわたしは、わたしを全うできているのだろうか?
左目越しに暮野さんの生活を見られなくなってさみしいのは、わたしと芋虫どちらの感情なのだろう。
芋虫と混じったわたしの感情は、どれが本物の色なのか、もうわからなくなっていた。
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