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 左の黒目がうっすら赤い。暗ければわからないが、陽の下で確認してみると多少目立った。あの赤い芋虫は、義眼の中に入ってしまったようだった。

 溜め息が出る。元々は義眼なのだからと抜こうとしたが、くっついてしまったらしく、びくともしない。それでも無理矢理指を押し込んだ。ひたすら痛くて取れる気配はなく、しばらく格闘してみたけれど、痛みに耐えられず結局やめた。

 目がじんじんする。いじったせいで、白目部分も充血してしまった。ふてくされたくなった。

 全体が赤い左目を鏡越しに見つめ、ねえ、と話し掛けてみる。中に入ったはずの芋虫は、じっと黙り込んでいる。

 あるいはもういないのか。いや、そんなはずはない。わたしはあの子のせいで。

 また、溜め息をついた。仕方ないので一旦捨て置き、鏡から離れてパソコンをつける。画面はしっかり見えていた。

 久しぶりの、すっきりとした視界だ。視力に問題がない事実自体は、単純に喜ばしい。夏ぶりの明るい創作意欲が湧いてくる。

 両目が使えるのならまずは絵だ。足りない画材を通販サイトで一気に頼み、支払いはクレジットカードで同時に済ませた。

 荷物は三日もすればすべて届いた。大きい絵を描こうと、絵の具を多めに買っていた。よく使う赤系統が大半で、他にもキャンバスや木枠が一気に来たので配達員さんはちょっと戸惑っていた。何度も往復して持ち込んでくれた。

 早速作業場へとすべて運んだ。木枠を並べて、描くための準備をてばやく行う。せっかく届いたので直ぐにキャンバスを張りたいけれど、本腰を入れて描けるのは山吹さんの配信を終わらせてからになる。他に気を取られているとろくな絵にならないのだ。

 配信。配信する場には、暮野さんも来る。どんな服で来るのだろうか、パソコンも自前のものを持ってくるのか、昔に書いたシナリオなどを、見せてくれたりしないだろうか。

 理由もなく泣きそうになってくる。最悪だ、と思う反面でひどくさみしい。左目がじくじく痛む。

 芋虫を入れたせいで、あの子の感情がそのまま混ざってしまったらしかった。絵の具みたいだ。パレットの上で混ぜ合わせたあとは、二度と分けられないのだろうか。

 なにかと憂鬱だったが、配信さえ終わらせれば多少の余裕は出るだろう。スマホのカレンダーを開き、配信日は再来週だと確認してから、段取り説明を兼ねた三人での食事が来週だとも覚え直す。

 その更に前、明日は暮野さんだけが、わたしの家にやってくる。

 芋虫に会うという名目で。


 朝から降る雨は止む気配もなく、家の中はどこにいてもじっとりと暗かった。夏の暑さはもうなくて、むしろ肌寒さを覚えて厚手のパーカーを着込んで待った。待っていた。

 昼過ぎに呼び鈴が鳴った。現れた暮野さんは透明のビニール傘を玄関先でたたみ、一定で降り続ける雨に苦笑した。

「前まで夏だと思ってたのに、秋通り越して冬だな」

「そうですね……」

 暮野さんを上がらせ、居間のソファーに案内する。長い髪に雨の滴が散っていた。カーキのジャケットも黒のスキニーも濡れており、たいへん寒そうだった。

 ひとまずタオルを手渡した。暮野さんは微笑みつつ礼を言い、タオルと交換で、手土産だと焼き菓子の入った箱をくれた。

 受け取って、一旦テーブルに置いた。暖かいお茶などを用意してから、さっと隣に座った。ほぼ密着する形だった。暮野さんは露骨に戸惑ったけれど、顎先をぐりぐり押しながら、

「どうしたの、寒い?」

 と様子見のように聞いてきた。

「いえ、そういうのではないのですが、嫌ですか」

「……、えーと……なんていうか……近すぎるっていうかさ……」

「説明が困難なんです、ちょっと待ってください」

 芋虫はいないとどう言えばいいか、どころの話ではなくわたしはひたすら困っていた。ほぼ抑制が効かないのだ。朝からやたらと浮き足立って、会いたかったと抱きついてしまいたいくらい喜んでいる。離れて座るのが寂しいし、手土産まで持ってきてくれて本当に嬉しい、出来れば帰って欲しくないし一週間くらい泊まって欲しい。なにかを書いている姿を夜通し見たいしいろいろ話を聞かせて欲しいし、とにかく半日にも満たないような時間ではまったく足りなくてもどかしい。

 そしてこれらは完全にわたしの感情ではない。左目がずきずきする。どうにか抉り出せば治ると思われるけど、こんなふたつにひとつは酷じゃないかとひっそり嘆く。

 左目が完全に消えてしまうか、特別な他人がうまれてしまうか、わたしはどちらも同じくらい嫌なのだ。

 すっかり黙り込んでいた。暮野さんはずっと困っていたが、そろそろと動いてお菓子の箱を慎重な手付きで開いた。

「疲れてるってわけでもなさそうだけど、まあ、とりあえずこれでも食べて、落ち着いて」

 中からはカップケーキが出てきた。バターの香りが甘くよぎる。ひとつ受け取り、無言で食べた。たまたま貰わない限り食べないお菓子だけれど、こうして齧れば美味しかった。広がる甘さが、上品だった。それなりに良い店で買ってくれたのだろうか。

 暮野さんも隣でひとつ齧っていた。口の端にかけらをつけたまま食べ進めるので、つい笑ってしまった。子供みたいでかわいかった。

 笑い声に反応し、暮野さんはこちらを向いた。驚いた顔でわたしを見つめていた。

「あ、笑ってすみません」

「いや、それは良いん、だけど」

 暮野さんはまた困っていた。わたしもじわじわ困り始めて、誤魔化そうと指を伸ばした。暮野さんの口元を拭った指を、彼は反射のようにさっと掴んだ。今度はわたしが、驚いた。

 近い距離で見つめ合い、恐ろしく真剣な目の色に、どきりとした。

「透子さん」

「……はい」

「本当に、どうしたんだ? 俺をからかって遊ぶタイプでも、ないだろ。何かあったのか、何なのか、全然掴めなくて正直今は、めちゃくちゃ混乱しています」

 どうにか頷くのがやっとだった。怒らせただろうかと思った瞬間、左目が熱くなった。まずいと思って瞼を閉じたが、止まらなかった。

 涙が落ちた。慌てて腕を振り払い、両手で左目を押さえつけた。すると今度は右目が潤んで、堪える間もなくぼろりとこぼれた。それからは堰を切ったように、両方の目が泣き始めてしまった。

 もうどうしようもなくなって、涙腺が空になるのを待とうとしたが、不意にさっと抱き締められた。暮野さんのジャケットは吸い込んだ雨の匂いがした。

「ごめん」

 何故か謝られた。大丈夫だと伝えるために背中を撫でると、さらに強く抱き締められた。力がつよくて苦しかったけれど、嬉しさのほうが勝っていた。

 男性にまともに抱き締められるのは、初めてだ。彼で良かったと思う、思うけど、思いたいわけではない。でも心は、虫は、わたしの言うことをまったく聞かない。

 暮野さんは、ごめんとふたたび呟いた。虫じゃなくて透子さんに会いに来たと続けて重ねた。

 わたしはいつの間にか泣き止んでいるけれど、返す言葉が見つからなくて、ずっと背中を撫でていた。

 暮野さんは息を吸い込みまだ話す。

「透子さん、俺は透子さんが好きです」

 と、初めて会った時のような折り目の正しさで慎重に言ってから、わたしを抱き締め続けている。

 告白してくれてものすごく嬉しい反面で、二度と言うなとものすごく憎み始める。

 ものすごく憎み始めたせいで、家族が死んだ日のことを鮮明に思い出す。

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