6
暮野さんが部屋に戻ったあとに、山吹さんから了解の返信が届いた。三人での配信を喜んでいる風だった。
断り切れないのであれば、二人きりよりもよほどましだ。一応安堵したが、不安材料も残った。
暮野さんは部屋に戻るとき、芋虫も当然のようについていった。わたしと顔を合わせたくないらしく、彼の長髪に隠れたまま、最後まで出て来なかった。
義眼ごしに、左目を触る。ベッドに座りながら、わたしの眼差しで文字を打ち込む姿を思い返すが、ぞくりとしてすぐやめる。
そういえば、執筆する背中は芋虫越しに何度も見たが、顔を見たのは初めてだ。
わたしが小説やシナリオを書く立場だったなら、途方に暮れるくらい、恐ろしかったかもしれない。
義眼を外して、布団に入った。考えることを止めればすぐに寝ついて、アラーム音で目が覚めるまで眠り続けた。
朝食バイキングの券を持ち隣部屋に伺うと、暮野さんが眠そうにしながら顔を出した。
ふたりで階下のレストランに向かった。芋虫はねむっているらしい。寝たふりだとちょっと訝った。わたしに会えば戻ってこいと言われるので、嫌がった可能性はかなりある。
「けっこう品数あるね」
暮野さんは皿にウインナーを積んでいる。食感が好きらしい。他にも野菜炒めや卵焼きなど、オーソドックスな料理を別の皿に取っていた。
米とパックの納豆をトレーに乗せた。味噌汁もついでに置いて、漬物を全種もらった。奈良漬けが、ちょっと嬉しかった。
二人席に向かい合わせで座ると、暮野さんはわたしのトレーを見て笑った。
「あんたはいつでも透子さんなんだなあ」
しみじみと言われて、ついため息が出た。
「わたしがわたし以外のなにかには、ならないと思いますが」
「そういう意味じゃないよ、かと言って上手く説明も出来ないんだけど……」
「オクラ納豆も、主に納豆が好きで食べてますよ」
「オクラはそんなに?」
「いえ、オクラだけでも食べるときは食べます」
暮野さんはまた笑う。朝からずいぶん機嫌がいい。
わたしと朝食をとるのが初めてだからかと、察しながら納豆をかき混ぜる。
たいした会話もなく食事を続けた。レストランはそう込み合ってもおらず過ごしやすい。ときおり、黒いエプロンのスタッフさんが料理を追加しに来た。焼きたての玉子焼きにちいさい子供が飛んでいく。
誰かと朝食を食べる。ずいぶん、久しぶりだ。暮野さんはどうなのだろう。わたしはこの人の生い立ちをほとんど知らない。
飼っていた芋虫を、蝶にするまで育てるくらい、丁寧だとは知っている。
「透子さんはさ、なんであの芋虫には厳しいんだ?」
食後のコーヒーを飲んでいると、世間話の顔で話し掛けられる。
「あの子がわたしを苛つかせるからですよ」
「何回も潰そうとするくらいイライラするのも、なんだろう、透子さんの虫への愛情からずいぶん剥離するというか。家で飼ってる蜘蛛なんかは大事にしてるだろ? 庭先で死んでる虫も、丁寧に埋葬してるってあいつに……芋虫に聞いたしさ」
見ていないときもよく話しているらしい。あれだけ懐いていているのだから当然か。
正面の暮野さんを見る。身支度が完了していないようで、ぽつぽつと無精髭が生えている。
「埋葬については事実です。単純な、弔いたいだけの行動ですよ。わたしの芋虫への感情に関連はないし、あなたが口を出すのもおかしいです」
適当にあしらっても良かったが、納得させたくて言った。
わたしの緩やかな拒絶を聞きながら、暮野さんは黙ってコーヒーを飲んでいた。
近くにいた男性が席を立つ。まわりには誰もいなくなり、暮野さんは見計らったようにカップを置いた。
「素直に言うと、潰しかねないから、今はあまり返したくない」
なるほどと思うが、同時にじわじわ腹が立つ。情を移しすぎているだろう。
「暮野さん。あの子は元々わたしの虫です。何度も言いますが、わたしがどうしようと、あなたに関係はない。潰すかもしれませんがその場合、責任の所在はわたしにしかないんですよ。暮野さんが気にやむひつようはありません」
「そうだろうが、ちょっと違うよ。俺は多分、芋虫が潰れるどうこうじゃなくて、本当ならそうしないように見えるあんたが虫に手をあげること自体が、とんでもない問題に思えるんだ」
「とんでもない問題……?」
つい聞き返すと、暮野さんは慎重な顔で頷いた。
「なにか、取り返しがつかないような、惨事が起こるように思えてきて。あんたは明らかに、あの芋虫に対してだけ、辛く当たる。その理由はわからないけど、どうしても気になるんだ。透子さん俺は、透子さんに酷い思いをして欲しくないんだよ」
返事に困り、口を閉じた。暮野さんは真剣な顔だったが、それ以上は言い募らずに、コーヒーの残りを飲み干した。
くっきり浮かぶ喉仏の上下を見つめながらわたしは、酷い思い、酷い思いと、脳内で何度か繰り返した。
繰り返していくうちにふっと浮かんだ家族の姿が、あまりに遠くて息が詰まった。
「……とにかく」
掠れた声が出たが、続ける。
「あの芋虫は引き取ります。あなたに拒否権はないはずですよ、暮野さん」
言い切れば、渋々と了承した。暮野さんはもう喋らず、わたしも黙ってコーヒーを飲みきった。
芋虫は案の定わめいた。暮野さん暮野さんと繰り返すので、また潰したくなった。わたしから生まれたくせにわたしではなく暮野さんを恋しがる姿にも苛ついた。
仕方なく、持ち込んでいた小型の虫かごに詰めた。芋虫はプラスチック容器の中で縮こまり、まだなにか言っていたがもう聞こえなかった。虫かごは鞄の底に押し込んだ。
「なんですか」
「いや」
暮野さんはなんとも言えない顔で一連を眺めていた。
チェックアウトし、帰りの新幹線に乗り込んだところで、
「お願いだから潰すなよ」
と低い声で頼んできた。
「……潰しませんよ」
「本当に?」
「しつこいな、潰しません。わたしのために、ひつようなんです」
芋虫をさっさと目に戻したい。片目に慣れはしても、やはり両目じゃないと上手く描けていない気もする。ちゃんと色が置けているのか、わからなくなることが恐ろしい。山吹さんに義眼だと知られたくもないし、配信までにどうにかしたい。
わたしはわたしが口惜しい。
「透子さん」
今度は柔らかい声だった。暮野さんは指を伸ばし、ためらう素振りもなく、手を握った。ふっと力が抜けた。よっぽど険しい顔をしていたのかと、思い当たった。
握られたままで、最寄り駅まで戻った。家までも送られ、暮野さんは拗ねた芋虫に別れを告げて、また連絡をするとわたしに言った。
夕暮れの中を帰っていく後ろ姿を見送ってから、家に入った。よろよろと壁に手をついて、痛い、と無意識にこぼした。本当に痛かった。締め付けるような痛みが走り、気付くと床に伏せていた。荒い呼吸音が自分のものだと理解するまで時間をかけた。
鞄が落ち、虫かごが空いていた。赤い体がのそのそと床を這っていた。痛いのはどこだろうと、ぼんやり考えたが自明だった。なにもない左の眼窩が、燃えるように痛かった。
芋虫が寄ってきた。わたしを覗き込み、また泣いた。暮野さんに会いたいと、あの人のところにいたいと、ごちゃごちゃ言うので反射で掴んだ。
「戻れよ……目に、戻れ、わたしに戻れ」
うわ言のように呻くと、芋虫はぴたりと泣き止み、笑った。
「戻していいの」
いいに決まってるだろだってあなたはわたしの。
もう声が出ず、芋虫はまだ笑っていた。
どうにか腕を動かして、けらけら声を上げている芋虫を、義眼の上に押し付けた。
さっさと入れ、目に戻れ。祈りながら押し込んでいるうちに意識が途切れた。
ピコンピコンと、間抜けな音がまず聞こえた。スマホの通知音だった。辺りは暗く、すっかり夜のようだった。
鞄から出たスマホが光っていた。持ち上げて覗くと、暮野さんの名前があった。それから涙が落ちてきた。
左目がはっきりと見えていた。芋虫は目に戻ったのだと、わたしは知った。でもだから泣いているわけじゃなかった。
とんでもない問題だった。
わたしは暮野さんに会いたくて泣いていた。
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