5
ホテルは言われた通りに別室だった。取り立てて描写するところもない、ごく普通のビジネスホテルだ。フロント係の女性は折り目正しく礼をして、暮野さんは代金を二人分支払った。わたしの部屋代はエレベーター内で手渡した。
さっそくベッドに横になる。ホテルの前には、よさそうな居酒屋で食事をした。アルコールで少し眠かった。このわたの美味しい居酒屋だったけど、住まいから離れているので、もう来ることはないかもしれない。
まどろみかけたが、ふと思い立って起き上がった。インテリアの絵画がかかった、白い壁を見る。別室でも、隣は暮野さんだった。義眼を外した。
似た構造の部屋が映る。暮野さんは、机に置いたパソコンに何かを打ち込んでいた。下から見上げるアングルだった。芋虫はパソコンのそばに転がっているようだった。暇らしく、暮野さんに向かって何度か呼び掛けていたが、仕事中なのかあまり構ってもらえないようだ。
なら、眺めていても面白いことは起きない。義眼を嵌め直そうとする。その直後に、暮野さんはふっと壁を見た。キーボードの上で指は動きを止めて、視界がよろよろと動いた。芋虫は暮野さんの腕を進み始める。肩まで登り、暮野さん、と呼び掛けた。
「うん?」
今度はまともに返事をした。隣が気になるんですかと、芋虫は聞く。暮野さんは素直に頷き、透子さんは、と口に出す。
「人気の絵描きさんで、実際に俺も、透子さんの絵は本当にすごいと思う。あんな絵、化け物じみてる山吹梢にも描けないだろうなって。……なんて、月並みな話しかできないような、俺みたいなその辺りにごろごろいるライターと、透子さんがわざわざ仕事する意味はないよな」
そう思いますかと、わたしも芋虫も聞く。
「卑下したいわけじゃないんだけど、どうもな。透子さんは芸術家に見えるけど、俺はそうでもないから。仕事は選ばないし、書けって言われた媒体に合わせて、話を作っているだけだ。俺自体もあんまり一貫しないよ、なにかと、引きずってる。書いてる話のさ、視点人物を引きずったりするんだ。いつも脳味噌がふわふわしてるよ、あんまり器用じゃないのかもしれない」
暮野さんの口調は、たしかにふらつく。そういう理由なのかと納得しつつ、でもそれは、ある側面ではとても芸術ではないかと、芋虫ごと思う。
芋虫の視界のまま、そっと壁に歩み寄った。軽く叩けば、暮野さんははっとしたように目を見開いた。
「透子さん?」
無言でもう一度叩くと、彼は席を立った。扉に向かっていくので、慌てて義眼をはめ直した。
部屋の扉がノックされた。ちゃんと義眼の向きが合っているかを確認してから扉を開いた。廊下を背にした暮野さんはどうかしたのかと心配そうに聞いてきた。
「いえ……」
肩の芋虫を見る。ずいぶん太く、成人した男性の指くらいはある。
本当に育った。とても順当に、育ってしまった。
「入ってもらっていいですか」
暮野さんはためらったが、お邪魔します、と遠慮ぎみに入室した。中まで入るのはためらうらしく、扉前で困ったように顎をかいていた。
手招きして呼び、備品の椅子に座ってもらった。わたしはベッドに腰掛けて、ちょっと考えてから義眼を外した。
芋虫がいるのにいいのかと、暮野さんの目が聞いていた。わたしは頷き、何も置いていない掌を差し出した。
「ついでなので、この機会に芋虫をかえしてもらおうかと思って」
「え、今?」
「今です」
芋虫は赤々したまま黙っている。暮野さんも、動揺したのか黙った。当然かもしれない。芋虫を預かっていれば、あるいはこのまま飼う方向で引き取ってしまえば、暮野さんはわたしに会う理由がひとまず作れる。芋虫は元気だと、他愛なく連絡を送れたりもする。
立ち上がり、目の前まで行った。肩に手を当てれば、芋虫は嫌がるように暮野さんの髪を登った。縛ったままの後ろ髪に顔を突っ込み、逃げようともがくので、無理やり摘んで引き出した。
泣かれた。聞き分けのなさに引きつつ、わんわん言い始めた芋虫を両方の掌で包み隠した。
暮野さんは一連を無言のまま見つめていたが、芋虫の泣き声が聞こえる掌に複雑そうな視線を投げた。
「透子さん、いつか返すのはもちろんわかってたけど、なんで今?」
「あなたに懐きすぎたからです」
芋虫はまだすんすん言っている。じわじわ苛立ちつつ、暮野さんにもう行っていい、今まで世話をありがとうと述べた。
「いやでも、びっくりするぐらい泣いてるし、まだ明日も一緒にはいるんだから、もう一晩預かるよ」
彼はあまり納得しない。同時に芋虫もそうしてほしいと言い始める。頭でぐいぐいと掌を押して、どうにか逃れようと動いている。聞き分けがない。苛立ちがかなり増してきた。
あと一押しで潰すところだった。掌の力が抜けたのは、空気を弛緩させるような軽快極まりない通知音が鳴ったからだった。
片手でスマホを取るとその隙に芋虫は逃げた。暮野さんの足をよじのぼるので、彼は芋虫をそっと摘み上げて膝に乗せた。
それらを横目にしつつ画面を覗いた。山吹梢だった。タイミングが抜群に良い通知の中身は抜群に悪く、わたしのスケジュールに併せて配信日を調整してみたとなんでもないように書かれてあった。
「……もしかして山吹さん?」
よほど険しい顔だったのか、暮野さんが窺うように聞いてきた。
「そうですが、……部屋に戻っていいですよ。気が抜けました。芋虫もひとまず、今晩はあなたにお願いします。明日はすぐに帰りますので朝にでも渡してもらえれば」
「透子さん」
「なんですか?」
いつの間にか近くに来られていた。暮野さんはわたしの前に立ち、文面を見てもいいか、問い掛けてきた。
無言でスマホを出した。彼は頷き、画面の中を見た。それからちょっと眉を寄せ、黒目をぐるりと動かしてからわたしに合わせた。
「透子さん、配信に出たくないんだよな?」
逡巡して頷く。暮野さんは息をつき、わたしをベッドに座らせてから、隣に腰を下ろした。
「…………俺はずっと、透子さんは山吹さんが苦手なんだろうなと、思ってたんだけど」
「苦手です。配信の件もずっと断ってます。でも全然引かない上に調整までされると、そろそろ白旗を見せるしかないですね」
暮野さんは苦笑して、実は、と慎重な様子で口にする。
「俺も配信に出て欲しいって言われたよ」
「ああ、知ってます。わたしの次は暮野さんが良いって話してましたよ、ラジオドラマをたいへん気に入った様子でした良かったですねご愁傷様です」
「本当に怒ってるな、あんた……」
横目で睨むと両方の掌を見せられた。
「わたしに降参していただいても仕方ないですよ」
「ああいや、それはごめん……じゃなくてさ、もし山吹梢と二人でってのが嫌なら」
「嫌です」
即座に切り捨てると暮野さんはなぜか嬉しそうに笑った。
「じゃあ通るな。透子さん、どうしても避けようがないんなら、俺も一緒に出ればいいんじゃないか? それなら二人きりでもないし、まあちょっとは、透子さんも視聴者に不機嫌顔晒さなくて済むと思うんだけど」
暮野さんの顔を凝視する。掌は見せたままだけど、どうも本気のようだった。肩にいる芋虫が賛成と言いたげに体を捻っていた。
「…………、提案だけなら、してみても良い、かもしれません」
やがてそう言った。暮野さんは頷き、代わりに返事をしても良いか聞いた。すべて彼に投げてしまおうと思い、任せた。ベッドに仰向けで倒れ込むと、まぶたを閉じている暮野さんが見えた。
彼はゆっくり目を開けた。緩やかに冷えた眼差しに、ちょっと驚いた。知っている、どこかで見たような目だった。
スマホに返信を打ち込んでいる姿を眺めて思い当たった。
鏡でよく見る、わたしの目だ。
「書けた、これでどうですか」
暮野さんはしずかに話してから、何度か瞬きをして笑った。普段の彼の顔だった。
作成された文面に目を落とす。物凄く丁寧に、配信についての願いや詳細について書かれてあった。問題がないどころか、ほぼわたしが書いたような文面だった。
暮野さんは何食わぬ顔で肩の芋虫を撫でている。
あなた充分芸術家ですよと、わたしは声に出さず呟いた。
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