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「二人でじゃないよ、仕事絡みの話。つっても、顔見知りになっちまったから、ついでにあの子あんな感じだから、kurenoさんkurenoさんって喜んで話し掛けてくれたんだ。その時に色々と話したけども、共通の話題だから何度もあんたの話が出て……、怒ってる?」

「怒ってませんが」

 本当は若干怒っていた。暮野さんの生活をすべて把握したつもりだった自分に対して、どうも怒りが湧いていた。芋虫の視界が見られるだけで薄っぺらい万能感を覚えていたのだ、ばかばかしい。

 義眼を瞼越しに抑えると、暮野さんの肩にいる芋虫が、嘲笑うように体を立てた。やっぱり潰してやろうかなと一瞬思った。

 出方を窺っているような暮野さんから視線を外す。スケッチブックを閉じ、話を切ろうと立ち上がった。でも腕を引かれた。

「透子さん、聞いて。仕事仲間や先方を含んで食事したけど、透子さんの話をしたにはしたけど、主に発信元は山吹さんだったから。義眼の話はもちろん黙ってたよ。あんたの話は、その、どう知り合ったかとか、言える範囲は言っちまったけど。それよりは山吹さんが配信業もしてて、透子さんや俺をいつかゲストに呼びたいって話の方が多かったから」

「その件は知ってます、何回も誘われているので」

 出来るだけしずかに言って、自然に手を離させる。暮野さんはなぜだか寂しそうにした。連動するように芋虫の体が縮こまる。

 一方的にいじめているような気分になってきた。ついため息が出そうになって、飲み込んでから首だけを動かし、彼と芋虫を見下ろした。

「とにかく、怒ってません。なぜわたしが、怒るんですか。山吹さんからなにか聞いたわけでもありません、先ほどの発言はちょっとした勘違いです」

「誰と間違えたんだ?」

 即座に切り返されて一瞬遅れる。交友関係の狭さは、この人も知っているのだ。

 じっと見つめられ、目を泳がせてはいけないと見つめ返した。合間を縫うように、ライオンの餌やり見学についてのアナウンスが鳴った。虫たちは芋虫を含めてじっと黙り込んでいた。

「純太です」

 困ったわたしは、一瞬で彼を黙らせる悪手を打ってしまった。アナウンスに紛れたかと思ったが、暮野さんは目を見開いた。

 それから案の定、黙った。

 気まずさのある沈黙が訪れた。ちらりと芋虫を見るが、そちらもぎゅっと縮んだままだ。仕方なく、行きましょうと声をかけた。暮野さんは黙ったまま立ち上がり、わたしが手をつけなかった缶コーヒーを上着のポケットに押し込んだ。


 外に出た。明度の違いに一瞬眩み、乾き始めた秋の匂いを吸い込んだ。あらゆる動物のこもった臭いも、同時に感じた。鳥類の叫び声がどこかの一角から聞こえた。

 哺乳類や鳥類に虫ほどの興味はないが、暮野さんがどうかはわからないので、ひとまず園内を回ろうとした。罪滅ぼしだった。あるいは気休めだったし、つい口に出した弟の名前のせいで、過去の淡さがピントを合わせ始めた。

 純太がどんな弟だったか、わたしはわざと思い出さないようにしている。

 首を振り、黙ったままの暮野さんを仰ぎ見た。立ち並ぶと身長差が露骨にわかる。わたしは低いが、彼は案外と背が高いのだ。

 暮野さんはわたしを見下ろし、手、と慎重な様子で呟いた。

「? 手が、どうかしましたか」

「握っていい?」

 改まって聞かれると、困った。しかし負い目があるので従った。差し出した掌を、暮野さんはほっとしたように握った。

 順路らしい順路はなく、思い付いた方向に進んだ。コアラやニホンザルやキリンを眺めてから、黒々としたゴリラのコーナーまでやってきた。彫りの深いゴリラが人気らしく、スマホを構えるお客さんが何人もいた。ゴリラにしては男前なのだろうか。人間に置き換えてみるも、男前の基準があまりわからないので断定しづらい。

 先ほど鳴いていたと思われる孔雀の前に来ると、暮野さんが反応した。

「孔雀、好きですか?」

 聞いてみると、

「いや、三島が好き」

 誰かの苗字を出されてちょっと困ったが、なんとか思い当たった。

「三島由紀夫?」

「そう」

 暮野さんは目を細めて笑った。初めて見る、なんだか繊細な表情だった。喉の奥が一瞬引き攣るが、なんの連動かわからなくて、困った。

 長い尾羽を揺らす姿に視線を変える。煌々とした飾り羽根は、今は収められている。

「孔雀の話が、三島由紀夫にはあるんですか」

 詳しくないので問えば、

「うん、ちょっとした掌編だから、読もうと思えばすぐに読めるよ」

 孔雀を見たまま、しずかな声で教えてくれた。

「わたしも、構造色には興味があります」

「ああ……やっぱり絵描きさんだからか?」

「それもあります、たぶん。でも、違うかも」

 上手く言い表せずに、つい濁した。また孔雀を見る。何度見ても、輝いている。

 その微細な配列が変わらない限り永遠に青い羽は美しい。本当は透明なのだ。光の反射が色を結ぶ。

 並んでしばらく孔雀を眺めた。不意に手を引かれたので離れたが、暮野さんはぽつぽつと話し始めた。三島由紀夫でも孔雀でもなく、構造色の話だった。

 蝶にも、有名な構造色を持つものがいる。青々としたモルフォチョウだ。暮野さんはそう話す。透子さんなら知ってるだろうけどと言われ、素直に頷く。描いた作品もあるし、標本だけれど見たこともある。筋状の青い光が羽の上で躍っている様を思い出す。初めて見るくらい、熾烈な青だった。

 話していると広場に出た。いつの間にか時間も経っており、陽がかなり下がっていた。人の数もまばらで、動物たちは気だるげだった。夜行の生き物はそろそろ元気になるだろうけど、目の届く範囲には見当たらなかった。虫達の棲家も、遠かった。

 暮野さんの腕をまた引いた。ベンチに座り、描きますと言った。彼は頷いて黙り、遠くの檻に視線を投げた。象がゆったりと歩く、物静かな檻だった。

 スケッチブックに鉛筆を走らせた。直ぐに描けたので、直ぐに切り離した。その一枚を差し出すと暮野さんは驚いた。

「え、くれるの?」

「はい」

 先ほど見た孔雀だった。白黒なので味気ないが、暮野さんは驚いた顔のまま、すごい、と言ってくれた。

 ほっとした。手をとって立ち上がり、夕飯のために居酒屋を探そうと提案した。ずっと縮こまっていた芋虫が、反応して背を伸ばした。暮野さんは頷き、わたしの手をぎゅっと握った。

「透子さん」

「はい」

「透子さん俺は、あんたの絵で何か書きたい、かもしれない」

 唐突な申し出にびっくりしてしまった。わたしが固まっていると、暮野さんは慌てたように今すぐじゃないと付け足した。保留の意味で頷き、今度こそ出口に向かって歩き始めた。

 案外と入り組んだ動物園の通路を無言で進みながら、逆の場合を考えた。

 暮野さんの話で何かを描く自分がどんな顔でいるのか、想像してみると怖かった。

 これらをたったひとりで難なく行う山吹梢はずいぶん恐ろしいと最後に過ぎった。

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