3
昼過ぎに到着して、まずは食事をしようと暮野さんが言った。あまり時間を使いたくなかったのでファーストフードをテイクアウトで希望した。歩きながら食べようとしたけど暮野さんに止められた。
動物園方向に向かいつつ、途中にあった公園に入った。紅葉が半分ほど赤く染まって綺麗だった。奥に一本だけ銀杏が生えており、真下の落ち葉で子供がふたり遊んでいた。
空いていたベンチに座って、ハンバーガーをもそもそかじった。塩胡椒が辛かった。
「ほら、火傷するなよ」
暮野さんは欲しがる芋虫にセットのポテトを与えていた。芋虫は嬉しそうな声を上げて、差し出された黄色い芋を食べ始めた。芋を食べる芋虫。絵面だけならいい題材にも見えたけど、いよいよ芋虫らしくなかった。暮野さんはまったく気にならないようだった。
そういえば家でも、彼の作るパスタや生姜焼きや味噌汁を欲しがっていた。なんでも食べたいらしい。味噌汁は無理だったようだけど、ツナの和風パスタにはかじりついていた。芋虫はパスタ麺を一本ずつ、先端から器用に食べた。暮野さんは笑いながら見下ろしていた。
塩胡椒が辛いハンバーガーを食べ切った。暮野さんはポテトを半分以上取られたようだ。満腹になった芋虫は、暮野さんの肩やら髪やらに登り始めていた。黒髪に貼り付く体は相変わらず赤い。なら中身も赤いだろうか。
じっとやりとりを見つめていると、
「そういえばこいつ、名前とかないの?」
急に問われた。
「ないです」
「なにか、つけないのか?」
「つけません」
「情が移るから?」
へえ、と意外に思う。情が移っているのはあなたでしょうと続けて思うが、ひつようないので言わずにまず否定する。
「好きに呼んでいれば良いですよ、たぶん、近日中に引き取ります」
アイスコーヒーを飲み切って立ち上がる。ゴミは暮野さんがすべて持った。芋虫はいつの間にか、暮野さんの腕をくだっていた、かと思えば腕の先にある紙袋に辿り着きがじがじと噛み始める。
やめさせようと伸ばした指は暮野さんに掴まった。
「……、なんですか?」
「いや、ごめん」
暮野さんはわたしの手首を掴んだまま歩き始めた。迷いのない足取りだった。
引っ張られながら、彼の横顔を見た。個展で会った日、芋虫を刺そうとして止められたことを思い出した。
何を考えているのかわからなくて、困ったまま道を歩いた。
動物園は予想よりも混んでいた。平日だけれど、家族連れが多かった。でも虫類と爬虫類の一角は、平日らしく空いていた。
展示は屋内だった。掴まれたままの手を引っ張り返し、さまざまな蜘蛛の並ぶ通りに直行した。抑えられた室内照明と違い、ケージの中はある程度は見やすいように照らされていた。
「暮野さん、この子がメキシカンレッドランプです」
家でも飼育している子を早速紹介した。丸くて赤い下腹部がとても愛らしい。わたしのレッドランプよりもすこし体が大きいところもたいへんに可愛かった。
これがキングバブーン、これがアカプルコレッドニー、ここからはアシダカグモ科。指し示しながら説明して、甲虫類のエリアに向かう。そこも日本ではあまり見ない虫が何匹も飼育されていた。オーソドックスだが、ヘラクレスオオカブトなどはいつ見ても精悍だ。艶めいた背中に、灯りが丸く反射している。
バッタやカマキリも数種類いた。擬態することで有名なカレハカマキリが、その名の通り枯れ葉に紛れて静止していた。じっと見つめているとかすかによろめき、逃れるように隠れてしまった。横から覗こうかとも思ったが、脅かしては可哀想なので、残念だけれど諦めた。
溜め息をつきつつ、ケージから目を離す。顔を上げた正面に、ちょうどよく休憩スペースがあった。しずかで、人もいなかった。
暮野さんを引っ張り座らせて、写生すると宣言した。スケッチブックを取り出し構えると、彼は急に笑い始めた。
「なんですか」
「なんでもない、好きなだけ描いてくれ」
「言われなくてもそうします」
「うん、飲み物買ってくるから、ここ動かないでくれよ。なに飲みたい?」
「お任せします」
暮野さんはまた笑い、自販機コーナーへと向かっていった。
虫のエリアは本当にしずかだ。ときおり、親に伴われながら子供が来る。しかし不思議と黙っていた。カブトムシにはわっと歓声をあげても、上下左右に並んだ蜘蛛には後ずさる。
慎重に通り過ぎる親子連れを尻目に、カマキリを何匹か描いた。違うページには蜘蛛、また違うページにはバッタ、また違うページにはカブトムシを鉛筆だけで描き写していった。
ふと気がつくと、暮野さんがいつの間にか戻っていた。隣に座り、ふたりぶんの缶コーヒーを手に持って、わたしの絵を覗いていた。
「楽しい?」
当たり前のことを聞かれて頷いた。
暮野さんはほっとしたように息を吐き、コーヒーをひとつ、私と彼の間に置いた。
「両生類とか爬虫類は、あんまり描かないか?」
「哺乳類や霊長類よりは描きますよ」
「何が好き?」
数秒考える。パソコンに向かう暮野さんの背中を、何故か思い出す。
取り憑かれたように文字を打つ人。
伸びた緩い癖毛を掻き回し、物語に引き摺り込む人。
「……アリジゴク?」
答えると、
「いやそれ虫だろ」
すばやく突っ込んでから砕けたように笑った。
「確か、羽虫の幼虫? だったよな」
「よくご存知ですね、ウスバカゲロウ類の幼虫です。引き摺り込んだ蟻に消化液を注入して吸っています、ダンゴムシなども捕まります。面白い虫ですし見た目もかわいらしいので、飼おうと試みた時期もあるのですがやめました。庭先に出来ていて観察したことはありますが」
「透子さん、虫の話は本当に喋るよな」
「暮野さんも、好きなものの話はたくさんするじゃないですか」
口に出してから失言に気付いた。
暮野さんが好きなものについて喋り続けるのは、今肩に乗っている芋虫相手の時だった。
黙ってから、そっと横目で窺う。暮野さんは顎の辺りをさすっていた。いつもの、照れた時などの癖だ。背筋がにわかに強張った。芋虫越しに見ていると、気付かれてしまったかもしれない。
不安に駆られた。暮野さんは言いにくそうにしながら、視線だけでわたしを見た。
「……山吹さんから、何か聞いた?」
意外な返答に出遅れた。山吹さん、と鸚鵡返しをすれば、暮野さんは誤魔化すように缶コーヒーを飲んだ。
違うならいいよ。そう言って逃げようとしたので追い掛けた。咄嗟に腕を掴んだけれど、掴んだことにはわたしのほうが驚いてすぐに離した。
暮野さんはわたしを見下ろして、何もしてないよと、変な言い訳をはじめに置いた。
どうも彼は、山吹梢と食事に出掛けたらしかった。
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