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 義眼を外すと相変わらず芋虫の視界が現れる。すっかり見慣れた彼の部屋だ。縛られている長い髪と丸まった背中を、芋虫はいつも見つめている。

 見つめるだけでは飽き足らず、のそのそと床を這って近寄り、声をかける。彼はぱっと足元を見て、ジーンズの裾をよじ登りかけている芋虫を優しい手付きで掌へと乗せる。すぐ近くに、暮野さんの顔がある。

「どうしたの?」

 優しい問い掛けに、芋虫はもぞもぞしながらパソコンをちらりと見る。

「かいてるもの、みせて」

「ああ……それはいいけど、まだ書きかけだよ」

「書きかけでもいいから、みたいです」

 わがまま極まりない要望だ。暮野さんは苦笑しつつも、芋虫をパソコンの横へそっと置く。

「キーボードは、乗らないでね」

「乗っても、沈まないとおもいます」

「最近、大きくなってきたから……」

「ふとってません」

 拗ね始めた。暮野さんは謝りつつ、芋虫をまた掌に乗せた。芋虫はその位置で体を伸ばし、嬉しそうにしながらパソコンの画面を除き始めた。

 そこで、義眼を嵌め直した。視界はふっと炎のように消え去って、代わり映えしないわたしの自室のみを映し出した。

 暮野さんはわたしの要望通り、芋虫に目の話はしていない。芋虫が聞くこともない。それでようやく腑に落ちた。

 視界が繋がっているということは、芋虫はやっぱりわたしの目に違いない。なぜそうなったかは不明だけれど、間違いはないはずだ。

 卵になった眼球を破り裂いて出てきたのだから、道理でもある。そうでなくては困るし、わたしの目であるのなら、いずれは帰ってくるものなのだ。

 苛立ったときに潰さなくて良かった。

 でも少しだけ、体液の色が気になった。


 暮野さんと動物園に行く約束をした。断ろうとしていたが、断ろうとしていると察したらしく、奥の手をすばやく出された。虫類のコーナーが充実している動物園ならどうだと彼は食い下がった。

 不覚にも受けてしまった。大体の展示をホームページで調べ、珍しい昆虫の並びを見て、新しいスケッチブックも買った。嵩張らないように色鉛筆だけをペンケースに押し込み、飼っている虫たちには充分な餌を用意した。カサカサと出てきてくれたレッドランプに今度留守にすると声をかけたが、じわじわ不安になってきた。

 とても魅力的な施設だが、少し遠かった。どうしても泊まりがけになるのだ。

 取材旅行だと思えば問題なかったが、暮野さんと二人だと思うと問題だった。これがもし山吹さんでももちろん問題で、わたしはわたしを気に入っている人がどうにも苦手なのだと、気付いていたことではあっても尚更自覚した。

 もっともこれは、つい最近気が付いた。笑顔で映る弟の遺影を見ているうちに思い当たった。

 家には一応仏壇がある。葬式後にわたしが買った。遺影も仏壇も冗談のように真新しく、特に遺影は彩度の高い写真によって、まぶしいほど明るかった。

 五年は経つが、褪せもしない。仏壇前に腰を下ろすと三人分の笑顔に迎えられる。すぐそこに家族がいたときと、なにも変わらない気すらする。

 暮野さんに聞いた話を思い出す。弟が公募に絵を出していた事実。虫の絵を描くわたしの隣で、なにかしら描いてはいた純太の横顔が相変わらず淡い。でも、ふと声だけが過ぎった。

 ……僕は姉さんを凄いと思ってるんだ。本当に、そう思ってるんだよ、透子姉さん。

 いつ言われた台詞だろうか?

 時期はあやふやだけれど、声だけ思い出せば状況はぼんやり浮かんできた。いつものようにわたしが絵を描いているところに、学生服姿の純太がやってきて、たぶん、そう話した。

 どう返答したかはわからない。わたしはにわかに引いたと思う。凄いと凄くないは、主観だ。才能も主観で、他人への憧憬も期待も思い込みだ。血のつながった弟に凄いと持ち上げられても意味がわからず、苦手に感じた。

 言葉の真意も、今となってはわからない。

 凄いと言いつつも邪魔に感じていたかもしれないし、額面通りだったのかもしれないけど、想像の域は二度と出ない。

「純太」

 旅行に出掛ける手前に、笑顔の遺影に声をかけた。純太はもちろん、母も父も無言だ。そこにいるが、永遠に無言だ。


 十月にもなれば、暑さはずいぶん消えていた。すっきりした秋晴れで、澄み渡った空が高い。平日の午前だけれど、通勤通学ラッシュは過ぎており、道は歩きやすかった。

 履き慣れたスニーカーにパーカーとジーンズという、男性とふたりで出掛けるにはやる気のない格好で待ち合わせの駅へと向かったが、顔を合わせた暮野さんは嬉しそうに片手を上げた。

「おはよう、透子さん。晴れて良かった」

「おはようございます。新幹線の中で景色を描こうと思います」

 暮野さんはわたしらしいと笑い、事前に買っていた乗車券を渡してきた。彼の出で立ちは、なんとなくお洒落にまとめてある気もした。ダークグレーのコートが、物静かな雰囲気に案外と似合っていた。

「あ、言い忘れてたけどホテルは部屋を別でとってあるから、安心してもらって」

「そうなんですか。どっちでもいいですよ、そこは」

 それよりも。

「芋虫連れてきましたか?」

 新幹線の二人掛けに並んで座ってから、通路側を選んだ暮野さんに問い掛けた。返事を待つひつようはなかった。暮野さんのリュックから顔を出した赤い塊は、またずいぶん大きくなっていた。

「……太った?」

「ばか」

 芋虫はむくれながらわたしを罵倒した。それから暮野さんの、縛った髪へとよじ登り始めた。すっかり慣れているようで、暮野さんは芋虫の好きにさせていた。

 新幹線が動き出した。窓辺を見やり、まだらに紅葉している山を視界に収め、覚えた。稜線はなだらかだ。低い山脈の後ろに、遠くの高い山が見えている。そちらはほとんど緑のままだ。

 スケッチブックを開いた。見た山を奥に描き、動脈のような線路を手前に敷いた。延々寄り添う二本の線に、百足の形の電車を置いて、次のページに移動した。

 目の端で暮野さんが動いた。座席前にある簡易テーブルを出し、ポメラを置いて起動した。見ていると目が合った。暮野さんは笑い、肩に乗っていた芋虫をテーブルへ移動させてから、ファイルをひとつ起動した。

「短編小説の依頼があってさ」

 暮野さんは座席にもたれ、ふっとため息をついた。

「シナリオをいくつか書いたソシャゲが好調らしくて、キャラクター毎の小説アンソロジーが企画されたんだよ。で、俺にも機会が回ってきたんだけど、けっこう悩むねこういうの。小説って形で出すことないから、余計に……いつもどうやってたっけなとか、思い出せなくなってくるというか……」

 憂うような横顔だったが、わたしには不思議な悩みに聞こえた。

「暮野さんのお話、面白いですよ。わたしはシナリオや小説のことは詳しくないですが、あなたの話には引き込む力があると思います。主人公に同化させてくる力というか。なので、出来るんじゃないでしょうか。小説という言葉に戸惑っているだけで」

 話しながら、白紙のスケッチブックに鉛筆を走らせた。特になんでもない、家で飼っているタランチュラの絵だったが、熱心にキーボードを叩いているコミカルな図になってしまった。

 暮野さんは黙っていた。でも、ぐりぐりと顎をさすっていた。視線はうろついてからわたしの絵を見た。ちょっとだけ笑ってくれた。

「俺って、蜘蛛っぽいかな」

「そういうわけではないですが」

 嘘だよと言ってから、暮野さんは真剣な顔でこちらを向いた。合わさった視線の熱さに、じわじわ戸惑った。苦手だった。

「透子さん、ありがとう。愚痴言ってないで、ちゃんと書くよ」

 率直な返事に余計に困りつつ、頑張ってくださいと月並みに終わらせた。

 お互いに絵と文字をかく作業に戻ったが、照れたような雰囲気は目的地につくまでうっすら続き、芋虫だけは奇妙なほどに機嫌が良かった。

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