秋
1
人間は黒くなる。
家族の遺体を見て、まずそう浮かんだ。病院での話だった。通夜や葬式に加えて遺産類の相続や事故の処理などが一気に降り掛かり、半年ほど記憶がない。一年かもしれない。なにせとても希薄だ。希薄さがよみがえるのは、その期間に描いた絵画がそれなりの賞をとってからの話だ。
家から少し離れた位置に河川がある。夏から秋にかけて毎年、付近の交通が数日停滞する。車を使わないわたしに実感はなかったけど今年は違った。玄関先で、大量の虫が力尽きていた。
オオシロカゲロウだ。雪が柔らかく降り積もったようにも見える。ちょっと悩んだが、まとめて埋葬した。ちりとりに集めてから穴を掘り、中へと一気に流し込んだ。
しっかり埋めてしまってから、おつかれさまでしたと頭を下げた。離れたこの家にまで飛んできた意図はわからないけれど、なんせ彼らは虫なので、わたしにとっては戦友だ。
家に戻り、飼育しているタランチュラに水と餌を与えた。それから別の虫籠を覗き、こもりきりのカブトムシの幼虫を土ごしにながめた。買い始めてから、しばらく経つ。冬を越せれば成虫になるだろう。
虫部屋を出て作業場に向かった。夕暮れを飛び回る無数のかげろうをパソコンで描き、あまり気に入らなかったので習作としてSNSに投稿した。
時間を見た。夜は近かった。どこかから虫の声がした。秋がゆるやかに降りてくる。
いつかの居酒屋に出向くと暮野さんは既にいた。カウンターではなく、二人席の片側に座っていた。ビールを傾けていたがわたしを見ると下ろした。対面に座ったところで、久しぶり、と顎をさすりながら言った。
わたしはそう久しぶりでもない。前髪で左目を隠しつつ、お通しを持ってきた店員さんに米焼酎の水割りとエイヒレを頼んだ。暮野さんがオクラ納豆と付け足したので、二人分と更に付け足した。
「芋虫、置いてきたんですね」
すばやく置かれた焼酎を飲みながら聞けば、
「ぐずられたよ、すっかり懐かれた」
苦笑気味に返してきた。
「それなら、あなたに預けて良かったです」
「預けられた時は急だったし、正直ちょっと困ったけどね……今は退屈しないし助かってるよ。でも、いつまで預かればいいんだっけ?」
「それは……どうでしょう、懐いているなら、差し上げますけど」
言ってから正体不明の不安が湧いて、やっぱりそのうち引き取りますと取り下げた。暮野さんはきょとんとしたが、噴き出して笑ってからビールを飲んだ。
直接顔を合わせるのは、個展に在廊していた日以来だ。暮野さんは仕事がいくつかあったみたいで、部屋にこもりきりのままずっとパソコンに向かっていた。時折、いや頻繁に芋虫が邪魔をするから、あまり進んでいないように見えていたけど、そうでもないようだ。
仕事と芋虫の合間を縫って、暮野さんは何回も連絡をくれた。何回も放置した。返したのは昨日で、疲れや怠さは治まっていたから、はじめに会った居酒屋で飲む約束をした。
暮野さんは切っていない髪を後ろで引っ詰めていた。そうしていると、自由業の雰囲気がある。長い髪の似合う男性は、あまり見ない。彼は様になっていると思う。わたしはわたしで最近髪を切っていないけど、鬱陶しいのでそろそろ切りたい。
ハサミはどこに置いていただろう。考えながら、届いたエイヒレを噛み締める。なんとなく無言が続いて、しかし話すことも思いつかず黙っていた。あなたのラジオドラマを聴いたとか、シナリオを書いたゲームのテキストだけを読んだとか、最近やっていた仕事が何かとか、色々話せばいいのだけれど、やめた。
「目、治ったの?」
そのうちに問われた。頷くか迷い、迷った瞬間はめざとく拾われた。
「眼帯つけてないからさ。……じゃあ、治ってないのか。痕でも残った?」
「いえ、そういうわけでも」
「透子さん、俺は頼りにならないかもしれないけど、変に隠されるとちょっとさみしいよ」
「……隠したいわけでも、ないですが」
息をつき、手元の水割りを一気に飲む。次はロックで注文し、同時に丼ものをひとつ頼んだ。
焼酎が運ばれてきて店員さんが去ってから、わたしはわたしの目に指を入れた。
「えっ」
明らかに困惑した暮野さんに向けて、まっすぐに掌を差し出した。上に転がる目玉は義眼だ。彼は左右に揺らめく義眼を見つめてはいたが、何も言えないようだった。
「……ちょっと、不都合があったんです。なので左目はこうなったのですが、眼帯をしていると半端に人目を引くので、作りました」
義眼をはめ直しながらわけを話した。出し入れは慣れたので痛くもないが、暮野さんにはそう見えないようだった。
「それはさ、全然大丈夫じゃなかったってことになるだろ」
「そうかもしれませんけど、誰かに頼るものでもないですし、手の尽くしようがなかったんです。誰にも言ってません、暮野さんだけです」
「……けっこうずるい言い分だよ今のは」
「受け取り方は好きにしていただければ」
ちらりとカウンターを窺う。手の込んだ丼ものは調理中で、人は来ない。まだ話せると判断する。
「暮野さん、目の話は誰にもしないでください」
「しないし、出来ないよ」
「わたしの芋虫にも、言わないで」
暮野さんは驚いたようだった。でも頷いて、タイミングを見計らったように丼ものが来た。たよりない湯気を立たせた親子丼は出汁の香りが美味しそうだったけど、食欲があるわけではなかった。なんとなく、頼んでしまった。
「暮野さん」
「うん」
「これを一緒に食べてください」
「うん?」
取り分け用の小皿にさっさと自分の食べる分を入れ始めた。卵より米より肉が食べたいので、肉の割合が多くなった。
残りを丼ごと押し付けると、暮野さんは眉を下げながらおかしそうに笑った。
「なんだろう、俺、透子さんのそういうところがかわいいと思うよ」
けっこうずるい言い分を今度は自ら発し、暮野さんは丼を手に持った。甘辛く煮込まれた鶏肉と優しい味わいの卵は美味しかったが、無言の言い訳のために含んでいるとろくに楽しめなくて不満になった。
会計をなぜか支払われさらに不満になった。即座に異議を申し立てたが、次は奢ってくれと言われてしまった。
「……なら、ごちそうさまです」
渋々礼を伝え、店の前で別れるつもりで歩き出す。暮野さんはついてきた。片目だから心配だと言われ、断っても無理矢理送られそうで承諾した。並んで歩くと、落ち着かなくなってきた。ふたりぶんの足音がいつもの帰路に響く様子に、慣れなかった。
居酒屋の香りが遠ざかり、建物の減る通りに出た。秋口の涼やかな夜風が、酒で火照った肌に心地よかった。その夜の中を、短い成体のかげろうが飛んでいた。大量というほどではなく、数十匹程度だった。ふわふわと旋回する様子は迷子のようにおぼつかなかった。前後不覚の酔客にも、ちょっと似ていた。暮野さんも顔を上げ、行き交う白い虫達を、感情の読めない瞳で見つめていた。
家まで戻ってきて、今度こそ別れの挨拶を告げた。暮野さんは何も言わず目の前に立ち、わたしの手を取った。すこし冷えた掌だった。彼は迷う素振りをしたあとに、真っ直ぐわたしを見下ろしてきた。
「透子さん、今度は食事だけじゃなくて、一日どこかに出掛けませんか」
改まった伝え方だ。この上なく真剣だと圧力をかけてくるような、まなざしだ。
目の端に、明日には死んでいる真っ白なかげろうが、何羽も過ぎった。
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