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わたしの無言をどう感じたのか、暮野さんは曖昧に誤魔化すような声を漏らした。同時にさり気なく、芋虫を鞄の中へ入れた。山吹さんがなにか聞こうとしたが、遮るように暮野さんが頭を下げた。
「山吹梢さんですよね、存じ上げてます。俺は暮野と言います、はじめまして」
折り目正しくなされた挨拶に山吹さんは声を上げて驚いた。かなり大きかったので、周りにいた数人に視線を向けられた。
山吹さんは恥ずかしそうに口をおさえ、
「クレノって、kurenoさんですか?」
とわかりにくく聞いた。
「ええと、ローマ字表記のkurenoですか? って聞いてますか?」
「あっ、そうです!」
「それなら俺で間違いないです」
「本当ですか! 私、kurenoさんのラジオドラマを毎週聞いていてすごくファンなんです!!」
純粋に喜ばれて、暮野さんは明らかに当惑した。手に取るようにわかった。わたしも何度か、なんなら毎回、通り続けている困惑だ。自分よりも遥かにすごい相手にファンだと言われても、困る以外にやることなんておもいつかない。
二人の姿から目を背け、椅子にもたれ掛かった。買ってきてくれたサンドイッチを手持ち無沙汰に齧って、展示品の並ぶ通りへ意識を移した。昼時だからかすいていた。薮内さんの姿もない。
サンドイッチをすべて詰め込み、スケッチブックを開いた。鉛筆で大体のラフを描いたあと、色鉛筆に持ち替えた。
塗ろうとしたところで赤い芋虫が落ちてきた。いつの間に鞄から出てきたのか。ちょっと引いていると、背を反らせてのたうち始めた。けばけばしい口紅が踊っているみたいだった。
「見ないの」
芋虫は動きを止めてから話し掛けてきた。
「暮野さんを、見ないの」
一番尖っている色鉛筆を手に取った。藍色だった。わたしはうるさいものがあまり好きではなかった。なので、転がる芋虫を刺し殺そうとした。
ゆっくり持ち上げた腕は暮野さんが掴んで止めた。
「透子さん」
しずかな声だった。見上げると、困ったように笑われた。暮野さんは紙に指を置いた。芋虫はすばやく登って鞄の影に隠れてしまった。
山吹さんが近くにいなかった。離れた場所で、彼女のファンらしい人と話をしていた。少しだけ頭がぼんやりした。無意識に眼帯を外し掛けたけど、直前で気が付いて、やめた。
隣に暮野さんが腰掛けた。わたしの手を離し、スケッチブックを覗いて、あ、と声を漏らした。
「これ、俺の部屋か」
言われてはっとした。ぼうっと描き出したラフスケッチは、確かに暮野さんの部屋だった。
慌てて絵を切り離した。暮野さんの膝に置き、差し上げる旨と来てくれて嬉しい旨を伝えた。その礼だとも付け加えて、言い訳ばかり重ねたことにじわじわ不満になってくるが絵を手に取った暮野さんの笑った横顔がとても素直で、溜飲はゆるやかに下がっていった。
「また部屋に行ってもいいですか」
私の声は勝手に聞いた。暮野さんは口ごもったけれど、頷きながら体ごとこちらを向いた。
「部屋もいいけど、今度こそ、映画か何か一緒に」
「透子ちゃん、kurenoさん」
山吹さんが戻ってきた。わたしと暮野さんは同時に彼女を見て、同時に口をつぐんだ。
「私そろそろ時間だから行くね、招待してくれてありがとう!」
「ああ、うん、気をつけて帰ってね」
立ち上がりつつ形式的に言う。合わせて、暮野さんも立ち上がった。山吹さんはわたしたちを交互に見て、恐縮そうに頭を下げた。
「ばたばたしてて本当にごめんなさい、今から配信準備しなきゃ間に合わなくて……ゲストの話も、個展のあとでもちろん構わないから今度話そうね、透子ちゃん。kurenoさんも、会えて嬉しかったです! あっこれ、名刺というか簡易連絡先というか、そういうのなので是非なにかご一緒させてください!」
暮野さんの前に長方形のカードが置かれた。山吹さんはふたたび頭を下げると、風のように去って行った。
風では生やさしい。ほとんど嵐で、台風だった。
「山吹梢ってあんな感じなんだね」
驚いたふうでもなく、引いた様子でもなく、極フラットに暮野さんは呟いた。拾い上げた名刺を鞄のポケットに入れてから、わたしをさっと見下ろした。
何か言いたそうにしたけど、言わなかった。個展を閉める一時間前まで隣にいて、持ち込んでいた端末で仕事用らしいなにかを書いていた。芋虫はあれから姿を見せなかった。刺し殺そうとしたので怒ったのかと思ったが、どちらでも良かった。
なんだか妙に疲れてしまった。
個展はお盆と共につつがなく終わり、気が抜けたように残暑になった。庭先で蝉が死んでいた。常に茹っていた大気が少しずつ冷え始めていた。空の色が変わった。竜巻のように突き出した入道雲があまり現れなくなった。
夏と秋のあわいを何枚か描いた。裏返る蝉の墓を見つけるたびに作った。作らざるを得なかった。横並びに誂えた墓の絵を、鉛筆だけで描き上げた。両親と弟の墓参りをまったくしていないと自覚していたが、今年も行かずに終わりそうだと八月下旬ですでに予感した。
暮野さんと山吹さんが、別々に何度か連絡を寄越した。先延ばしにし続けても意味はない。いつかは済ませなければならないとわかっているけど、どちらの連絡も返さなかった。本当に疲れ始めていた。なんの疲労か判然とせず、とにかく残暑は怠かった。頭がぼんやりする日ばかりだった。
生ぬるい床に寝そべりながら、時折眼帯を外した。義眼の発注は済ませていたが、仕上がりはまだ先だった。目の奥はたぶんずっと真っ暗で、でもいつも通り芋虫の視界をそのまま映して暮野さんの背中を見つめていた。
「透子さん、たぶん、というかかなり、山吹梢が、苦手だよね」
暮野さんは独り言のように芋虫へと声をかける。
「反則で出来てるみたいな人だったな。……個展も大変だっただろうし、透子さん、ずいぶん参ってるんじゃないかな、どう思う?」
別に大丈夫ですとわたしは呟く。芋虫も、同じ言葉を糸のようにゆるゆる吐いた。
「大丈夫ですってさ、けっこうな拒絶だったりするから、あんまり信用できないよ」
暮野さんは椅子にもたれて、縛れそうなほど伸びてきた襟足を、指先でぐるぐる掻き混ぜる。
「俺はあんまり大丈夫じゃないな」
どうしてですか。
「透子さんに会いたいよ」
言葉を聞き終わった直後に眼帯をつけた。横向きに寝直し、まぶたをつよく閉じて、大丈夫ですと声に出した。
大丈夫です。今は疲れていますが、たぶん夏が死ぬからです。虫の声が変わっていくからで、季節の間はいつも景色が揺らぐからで、見える世界は大丈夫じゃなくともわたしは大丈夫です。
そしてこれは、あなたの言う通りにけっこうな拒絶です。
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