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「直接会ったことはないけどね」
暮野さんはわたしの手を握ったまま、視線を遠くへ流して目を細めた。
「俺はほとんどフリーなんだけど、昔馴染みがやってる企業はライター業以外も手伝ってるんだ。ほら、透子さんが好きだって言ってくれた18禁ゲームを出したところ。全年齢対象のノベルゲームもあってさ、それのキャラクターデザインを企業ホームページ内で公募してたんだけど……」
「純太が、応募したんですか?」
思わず先回りで聞くと、逡巡を挟む肯定が返った。
「七年くらい前の話だよ。大々的な賞でもないし、大した喧伝もしてなかったし、正直、プロに発注するより安価って体だったから、そう応募数もなかったんだ。それで……藤宮純太くんは最終選考に残らなかったけど、発表後に選考お礼のメッセージを送ってきたのは彼だけだったし、応募者の中では一番若かったから、俺の印象には残った。社内営業宛のメッセージを返信させてもらったよ。二、三通だけど話して、次の公募も送ると彼は言って、実際に送ってきた」
でもやはり賞には漏れて、暮野さんはまたメッセージが来るかと少しだけ待った。でも来なかった。企業側から送るものではなく、その次の公募に純太の応募はなかった。
「まだ高校生だったし、イラストの公募なんてあちこちにあるし、転機なんて良くも悪くも転がってるし、そこまで気に留めてはなかったけど、……社内の誰かがニュースで見たって言ってさ。悪い転機だよ。正面衝突して全員死亡した酷い事故だって聞いた。それっきりだった。透子さんとはじめて会った時、名字が同じだとは気付いたけど、まさかなと思って聞かなかった」
暮野さんはぷつりと黙った。雨がいつの間にか弱まっていた。握られたままの手を一瞥し、過去を見つめる横顔を眺めた。
純太の横顔を思い出そうとしたけどあわくてずいぶん遠かった。
弟は絵を描く仕事がしたかったのだろうか。それならわたしを、とても邪魔に感じていたのではないか。
もしかすると、わたしが山吹さんに募らせるようなやるせなさを、弟はわたしに持っていたのかもしれない。
「あ、ごめん!」
突然謝罪された。暮野さんはぱっと手を離し、
「雨緩くなったね、出掛ける?」
と軽い雰囲気で聞いて来た。
「いえ、どちらでも」
「映画館はちょっと遠いし、いい時間だから昼ご飯でも食べに出ようか」
「家の方がいいです」
わたしの答えじゃなかった。暮野さんは目を見開き、きょろきょろと頭を動かしてから、鞄を覗き込んだ。
中から顔を出した芋虫は以前よりも育っていた。
「ついてきたの?」
暮野さんは苦笑しながら芋虫を掌に乗せた。赤い体が右から左に向かって、ゆっくりと波打った。暮野さんが背中を撫でると笑い声を上げ、腕をよじ登り始めて肩に乗った。
にわかに苛立った。でも苛立つ理由がなかった。反射で握った拳をほどいて、ひとりと一匹を残して立ち上がった。
「透子さん」
「家にいるのであれば、冷凍パスタとか、冷凍うどんとか、冷凍オクラとかあるので、何か食べられるものを出しますよ」
話しながら台所に移動した。冷蔵庫を開けると、追い掛けてきた暮野さんは驚いた声を上げた。
「なにこれ」
「なにこれとは?」
「この容器とか」
指された容器を取り出した。虫の餌だ。虫の餌だけど虫だ。赤虫と呼ばれる、暮野さんの肩でうずくまっている芋虫のような、真っ赤な餌だ。
「釣りの餌みたい」
「使えると思いますよ」
冷蔵庫は餌以外には米と酒しかなかった。そっと閉じる。小ぶりの冷凍室は餌のマウスが詰めてあるので、大ぶり側を開いて冷凍パスタを取り出そうとしたが、暮野さんに止められた。
「あのさ」
「はい」
「普段、なに食べてる?」
「あるものを食べていますが……」
外で済ませる方が多いし、作業中は片手でコンビニのおにぎりやパンなどを食べている。そう付け加えるとたいへん苦い顔をされた。
「あんた、ただでさえ細っこくて心配なんだけど、飯くらいちゃんと食べなよ」
「食べていますが」
「いやそうじゃなくて、もっと栄養を考えてって意味で」
「あ、でもその子の食事はありますよ」
一番下の野菜室からキャベツを取り出し、一枚千切って芋虫に突きつける。芋虫はキャベツに飛び乗った。調理台に葉っぱごと放り出すと、すごいいきおいで食べ始めた。
自分から出たものとはいえ、変な虫だ。赤虫やマウスも食べるだろうか。
考えながら食事風景を見ていると、
「何か買ってこようか?」
暮野さんが提案してきた。
「いえ、それならわたしが買ってきます」
「家主不在の一軒家にはいられないって……」
「なら、この子は食事中ですし、一緒になにか、買いにいきましょう」
「ああ……それならいいよ、行こう」
時間稼ぎのためキャベツをもう一枚横に置く。暮野さんは芋虫に待機を告げてから、わたしと共に家を出た。雨はほとんど止んでいたが雲はまだ分厚く、軒先からは雨垂れがこぼれ続けていた。
徒歩十分ほどの位置にある弁当屋で、二人分の弁当を買った。ソファに並んで食べたあと、DVDでも観ようとラックから一枚、適当に出した。あまり台詞のない海外の映画だった。分類は恐らくホラーだが、子供のしずかな足音や、絞られた照明が見ていて飽きず、最後に全部燃えてしまうのも好きだった。
暮野さんは黙って画面を追っていた。膝には丸まった芋虫がいて、眠っているかと思ったが映画を食い入るように観ていた。
映画が終わったあと、暮野さんはわたしの眼帯にふと目を転じた。
「目、治らないね」
頷いて、眼帯を抑える。
「慣れてきました、平気です」
「病院、行った?」
「いえ……そういうのではないので」
不思議そうな顔をされてから、怪訝そうな顔をされる。途端に、ずきりと痛んだ。思わず呻くと慌てたように肩を支えられ、覗き込まれた。
そのまま数秒、どちらも止まった。目の端に赤い塊がうごめくさまが映ってから、やっと暮野さんの体を押して、離れた。
「病院、今度行きます」
わたしの言葉を受けて、暮野さんは安堵したようだった。
嘘ではなかった。治療かはともかく、いつまでも眼帯をしているわけにもいかないので、義眼でも作ってもらおうと考えていた。
晩飯もどうかと誘われたが、芋虫が不満そうな上に目の奥が痛くなり、断った。玄関には見送りに出た。雲は半分ほど捌けていて、水色と朱色のグラデーションが広がっていた。うっすら降りてくる夜の気配も、真上の空にはあえかなフィルターとして浮かんでいた。
色彩の中を、暮野さんは帰って行った。彼の姿が見えなくなってから家に戻り、パレットの絵の具を溶かしてさきほどの景色を何枚も描いた。
風景画や、虫の絵ばかり描き続けてきた。個展の展示もほとんどそうだ。
でも今描き上がったすべての絵に暮野さんがいて、わたしはあたらしいクリムゾンを捻り出して一枚ずつ丁寧に塗り潰した。どんどん暗くなる部屋の中で、どんどん赤色を消費して、全部塗り潰したところでクリムゾンはなくなった。
唸り声が出た。髪を掻き回しながら、あたらしい赤を求めて唸った。その間にすっかり夜が更け、わたしは作業場の床に転がって、眼帯を外した。
訥々と話し掛ける暮野さんと、嬉しそうに受け答えする芋虫が見えて、また理由もなく苛立った。
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