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 目はまだ痛んだ。卵となった眼球が痛みの原因かと思っていたが、どうも違うようだった。個展用のデジタル絵を描き直している最中、目の奥ががりがりと痛み始めて作業が中断してしまった。

 数分もすれば、遠のいた。鏡を覗いてみるが、左目の穴は真っ暗だ。問題なかったはずの視力はすでにない。がらんどうで、なにもない。ならわたしは何を痛がっているんだろうか。

 すっかり馴染んだ眼帯を嵌めた。描き直した絵を印刷して、薄いカーテン越しの光へと透かしてみた。逆光を受けたわたしの絵は、夏の暑さにゆっくり溶けていくようだった。


 異変は間もなく起こった。なにもないはずの左目が、急に見え始めたのだ。

 ただ、目の前の景色を映すわけではなかった。右と左は、別々のものを映していた。

 右は当然、今目の前にあるわたしの家の内装が見える。取り立てて変わったところもない、いつも通りの自室だ。

 でも左は、自分の部屋ではない部屋を、映していた。

 棚の多い整頓された一室がある。パイプベッドに投げ出されたいくつもの本、資料、その中に埋もれるように、暮野さんが座っている。後ろ姿だけど、間違いないとわかる。

 パソコンに向かう背中はまっすぐだったが、打ち込み始めるとどんどん丸まっていって、最後には画面に入り込みそうな姿勢になった。暮野さん。思わず声をかけると、彼ははっとしたように振り向いて、こちらまでやってくる。

 わたしを見つけたわけではなかった。彼の掌に乗せられて、視界が数回揺れて、虫の見ている景色だと気付く。

「今、声かけた?」

 暮野さんはどこか優しい響きのまま更に話す。

「それか、腹でも減った? なにもないけど……芋虫って、なに食べる?」

 わたしはなにも言わないが、

「なんでもたべます」

 暮野さんを見つめ続けていた芋虫は答える。

「じゃあ、ほうれん草でいいかな」

「はい、ありがとう、暮野さん」

「なんだかなあ、透子さんと話してるみたいで、変な気分だよ」

 暮野さんは顎をぐりぐりと撫でながら苦笑し、芋虫を掌から下ろして、冷蔵庫からほうれん草を持ってくる。芋虫はそれを食べる。おいしいと喜ぶ芋虫に、暮野さんは良かったと笑う。

 わたしは芋虫の主観でしばらく、ひとりと一匹の会話を見て、聞かされた。

 これは何度もあった。でも、常に映るわけではなかった。嫌になったタイミングで消えるし、無視して眠れば見なくて済んだ。極め付けに眼帯を嵌めたままでいれば一切見えず、だから、ずっと装着していればいいのだけれど出来なかった。

 彼が何かをうみだす背中を、わたしは芋虫と共に何度も眺めた。


 暮野さんに映画でも行かないかとの誘いを受けた日と、山吹梢に食事でもどうかと聞かれた日は同じだった。数時間差でメッセージが届いたので、うるさくて少し苛立った。

 指定日は違っていた。山吹さんの誘いは翌日で、暮野さんの誘いは一週間内のどこかだった。

 山吹梢に会うのは、あまり気が進まなかった。しかし個展用のボードを描かせた上に、山吹さん自体は何故だかわたしに懐いているので、邪険にする方が良くなかった。

 了承したあと、煩わしさに腹が立ってきた。落ち着こうと虫用の部屋に引き篭もり、メキシカンレッドランプを飼育している籠をじっと眺めて過ごした。冷凍マウスを放り込み、霧吹きをかければもぞもぞ動いて赤い下腹部を揺らしてくれた。いつ見ても愛らしいフォルムは、創作意欲にも繋がっている。

 ロイコクロリジウムにはカタツムリ用の餌を与えた。昼間なので、葉の上に出てうごめいていた。太い触覚がたいへんにかわいく、しばらくすればわたしはすっかり落ち着いた。

 虫部屋から出たあとに、今度は暮野さんに返事をした。少し気になり、眼帯を外してみたが特になにも見えず、返信は数分後に送られてきた。映画はなんでもよかったので、彼に任せた。わたしの気に入ったシナリオを書いた相手だから、任せたほうが楽しめると判断した。

 二人の約束が終われば、すぐに個展だ。自費の画集やポストカードも置いてもらえるので、それなりに楽しみではあった。

 個展を思えば機嫌もわりと良かったが、仕方なく顔を合わせた山吹梢に会った途端、劣等感ににじり寄られた。


 とても晴れて、茹だる暑さだった。昼間だから余計だ。影が、握りつぶしたように濃い。

 なんだか高い青空の下を歩き、指定の駅前で待っていると山吹梢がやってきた。白いワンピースに青いサンダルを履いていて、冗談みたいに明るい顔でこちらに駆け寄ってきた。

「透子ちゃん!」

「久しぶり、山吹さん」

 対面すると見上げる形になる。山吹さんは背が高い。わたしが低いのかもしれないけれど。

 笑顔を向けられて、一応向け返したが、青褪めた表情を更に返された。なにかと思えば彼女の視線は眼帯に吸い込まれていた。

「ああ、ちょっと怪我をして。痛くはないから、気にしないで」

「でも、画家って手と同じくらい、五感が重要だから」

 目が、ではなかったところにちょっと頷きつつ、

「本当に大丈夫、行こう」

 促して歩き出せば、腑に落ちない顔をしながらついてきた。

「透子ちゃん、やっぱり個展関連で忙しそうだね。無理に時間作ってくれたでしょう、ごめんね呼び出して」

「ううん、忙しくはないよ。……山吹さんこそ、忙しいのに個展用に時間割いてくれて、ありがとう」

「私のことは全然気にしないでってば!」

 山吹さんはワンピースの裾を揺らしながらわたしを見下ろした。

「それよりもね、私今日は、透子ちゃんにお仕事の依頼がしたくて」

「仕事?」

 彼女は頷いてから、ちょっと待ってと一言残し、スマホを覗いて道を確認した。

 店はすぐそこにあった。向かい合わせで座った直後に、「お仕事」の話が再開された。

「透子ちゃんが知ってくれてるかはわからないんだけど、最近自分で配信を始めたんだ。色んな媒体があってすごいね、まだ全然慣れてはないんだけれどちょっとは観てもらえるようになったから、絵のメイキング配信とかSNS投稿用のテキスト配信とか以外もやってみようかなあって。でも軽いアニメーションとか作ったシナリオの朗読も流してみたんだけどしっくり来なかったの。それでね、私、どうせなら誰かと一緒に配信してみたいなって。並んでお絵描きとか、楽しそうで良いなと思って。私ね、前から言ってるけど、透子ちゃんの絵が本当に好きだし憧れてるから、いちばんはじめのゲストとして来てくれないかなって! あ、ごめん、注文まだだった」

 聞いているだけで疲れたけれど、疲労感は長台詞のせいではなかった。

 山吹梢という人はほとんど化物で、喋った内容をほぼひとりで行った事実についてみんなもできるでしょうと本気で思っている。

 脳の奥が痛くなってきた。明確に返事をしないままメニューを開き、きのこ類のパスタとアイスティーを注文する。山吹さんはピザを頼んでいた。明らかに一人分以上だったが、もりもりと美味しそうに食べていた。

 とりあえず保留にして別の仕事を入れて断ろうと椎茸を噛みながら決めた。保留の旨を伝える前に、山吹さんが食べ終わったピザの皿を見下ろしながら、あとね、と話し始めた。

「会ったことはないんだけど、すごいなって思う人がいて、その人にも依頼出せないかなあって考えてるの」

 へえ、と相槌を打った。本当に他意もなく、なんて人? と聞いてしまった。

 山吹さんは笑顔になった。スマホを差し出してきて、このアプリで連載してるラジオドラマね、シナリオライターさんがずっと同じ人ですごく面白いんだよ、とたいへん嬉しそうに紹介してくれて、息が止まった。

「kurenoさんて人なんだ、透子ちゃん知ってる?」

 知ってるもなにもなく、わたしは無意識に眼帯をおさえた。

 赤い芋虫の嗤う声がした。

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