3

 掌の上で転がる赤い芋虫は、自分の目から生まれたにしてはかわいかった。

 冷蔵庫を開け、真ん中にどんと置いてあるキャベツを出した。閉める手前、米焼酎の瓶に挟まれている甘い缶コーヒーを抜いた。特に美味くないが、糖分用に買っていた。

 芋虫にキャベツを与えた。好き嫌いはないのか、一応食べた。虫を飼っている部屋に連れて行こうとするが抵抗された。なので、ひとまず食卓の上に乗せた。

 缶コーヒーを飲み干してから、鉛筆と小さめのスケッチブックを持ってきた。芋虫は恐らく単一の芋虫で、モンシロチョウやスズメガ科などでもないだろう。

 なんせ、わたしの中から出てきた虫だ。

 名前すら必要ない。

 うごめく体を数十体模写したあと、キャベツの芯を食べ残した偏食に話し掛けた。

「目に戻ってくれる方が、ありがたいんだけど」

 芋虫は赤い背をもぞもぞ動かすだけだ。戻る気はさらさらなさそうで、癪に触った。

 無意識に拳を握って振り下ろしたが、潰す直前に思い直した。空洞になった目を眼帯で隠し、暮野さんに連絡した。あなたの部屋に行きたいと送れば、慌てた様子の電話がかかってきた。

『もしもし? どうしたの急に』

「いえ、少しお願いがあって」

『なに?』

「会ってから話します。在宅されてますか」

『ああ、まあ、インドアな仕事だしね……』

 夕方頃に伺うと約束を取り付けた。電話のあと、地図付きの住所が送られてきて、道順の説明は明瞭だった。自宅からそう遠くもなく、路地裏にあった居酒屋の徒歩圏内だった。

「ねえ、きみ」

 芋虫に話し掛けた。

「わたしに戻る気がないんなら、他人に押し付けるけど、良いよね」

 誰に、と問われた気がした。

「暮野直矢」

 答えれば芋虫は自ら近寄ってきて、わたしの指先を登り始めた。

 それで、行き先はあっさり決定した。


 十階建てのアパートは独居用だけれど入口がパスワード制で、セキュリティがある部類の建物だった。701号室に暮野さんはいるらしい。わたしの前を歩いていた中年男性も同じアパート住まいのようだった。並んでエレベーターを待ったが、ふと隣から漂った香水臭を嫌がり、結局足を引いて階段に向かった。

 嫌がったのは芋虫だ。リュックから這い出てわたしの腕をかじるので、爪先で牽制しつつ階段を登り始めた。

 七階は遠かった。コンクリートの階段は踊り場に窓がなく、半分ほど外に晒されていた。吹き抜けた夏の風は夕方のほうが生ぬるい。

 辿り着いた頃にはすっかり汗をかいてしまった。角部屋にあたる一号室前には、待ちかねた様子で暮野さんが佇んでいた。

「階段で来たの?」

 暮野さんは驚きながら近づいて来た。

「はい、ちょっと」

「暑いんだし、目もまだ治ってないみたいだし、変なとこで無理しちゃ駄目だよ」

 親のような言い分だ。頷きつつ、案内されるまま701号室前に行った。暮野さんは何度か鍵穴に鍵を差し損ねていて、扉を開ける手前も本当に入るのかと聞きたげにわたしを見たが、結局黙ってノブを回した。

 部屋は本棚を筆頭に、収納棚が半分を占めていた。椅子付きの机には仕事道具らしいパソコンがあり、左右を本や紙の束が埋めていた。パイプベッドの上にも本がある。その横には携帯ゲーム機もあった。じっと部屋にこもっている姿が、あっさり想像できる室内だった。

「片付けようがないんだ、あんまりじっくり見ないで欲しいな……」

 暮野さんはばつが悪そうに言い、わたしを座布団の上に座らせた。わずかに残ったスペースには小さな卓袱台が出してあったが、たぶんわたし用に引っ張り出してきたのだろう。

 お茶を出された。暮野さんはわたしの正面に座った。何の用事だと問い掛けられる前に、鞄の中から芋虫を取り出した。

「これ、預かって欲しいんです」

 暮野さんは三回まばたきを落とした。思考時間を稼いでいたらしい。ややあって、俺が? と戸惑ったように聞いてきた。

「はい。わたしの家は手いっぱいで。虫、たくさん飼ってるんです。最近ロイコクロリジウムを飼い始めましたし、前からいるメキシカンレッドランプの餌にしようかとも思ったんですが、せっかくなので、暮野さんに」

「せっかくなのでって……」

「芋虫、飼ってらしたんですよね。蝶になるまで育てたと、仰ってたので」

 出された茶を啜る。ほうじ茶だった。赤い芋虫は早速暮野さんににじり寄っていて、無地の黒Tシャツを登りつつあった。黒い布地に浮かぶ一筋の赤は、とてもいい画に見えた。

 暮野さんは困ったように芋虫を見下ろしていたが、払い除けはせずにこちらを向いた。

「……確かに飼ってはいたけど、今うまく預かれる自信はないよ。かと言って、メキシカン? の餌にするのも、まあ、なんだか可哀想ではあるけども」

「わたしは交友がとても狭いので、暮野さんにしか頼めないんです」

 揺れたらしく、暮野さんは言い淀んだ。緩い癖毛をばりばり掻いて、自分のシャツをのぼる芋虫に人差し指を差し出した。芋虫は喜んで、第一関節によじ登った。芋虫と暮野さんは、数秒見つめ合っていた。

「……わかった、預かるよ」

 ほっとした。頭を下げて、よろしくお願いしますと再三頼んだ。暮野さんは渋々というように頷いた。

 用事が済んだため帰りかけるが、食事くらい出すと言われて座り直した。芋虫も、真似をしなくても良いのに卓袱台の上にちょんと座った。

「上がらせておきながらなんだけど、透子さん、一人暮らしの男の家に上がり込むの止した方がいいよ」

 暮野さんはパスタ麺を茹でながら諭し始める。

「何もしないけどさ、何もしないっていうか、できないっていうか」

「暮野さん。あなたこそ知り合ったばかりのよく知らない女を家に上げるのは危ないんじゃないですか?」

「そっちも確かにそうだ、確かにそうだから、もう少しくらい、あんたの話を聞かせてくれよ」

「名前と性別と職業以外だと、何がひつようですか?」

「ええと、好きなゲームとか」

「禁足秘教外伝〜血の饗宴〜が好きです」

「えっ!?」

 露骨に驚かれてびっくりする。暮野さんはパスタ麺をザルにあけ、足早に近づいて来たと思ったが、横をすり抜け背後の棚に向かった。

 引き摺り出されたものは男性向け18禁アダルトゲームである禁足秘教外伝だった。

「持ってるんですか」

 同好の士はうれしい。少しそわつきながら、卓上に置かれたゲームのパッケージを芋虫と共に覗き見る。赤が基調のキャラクターデザインを気に入り、やってみたものだ。そうすると、思いのほかストーリーが面白かった。18禁シーンは容赦なく血の饗宴で、ヒロインたちの手足はよく千切れた。キャラクター別のエンディングも全て丁寧な掘り下げで、全員のエンディングを見るまで周回した。

 なにより視点の主人公への没入感が楽しかった。平凡な青年がじわじわ嗜虐を覚える様子が細かくて、段々と自分がヒロインを千切っている気分になる怪作だった。

 懐かしさに浸っていると、暮野さんが顎の辺りをさすりながら覗き込んできた。

「いや、これ、俺のなんだよ」

 視線を合わせる。距離が思いのほか近かった。

「ほら、シナリオライター。kurenoって書いてるだろ、俺が前にやった仕事だよ」

「……そうなんですか?」

「そうなんだよ」

 しばらく無言で見つめ合った。そのうちに暮野さんは思い出したようにキッチンへ戻ったが、ずっとそわついたように顎を撫でていた。照れた時の癖かもしれないと気が付いた。

 調理を続ける暮野さんの姿を見つめていると、唐突に指をかじられた。

 わたしの指を食む芋虫が、笑うように頭を揺らした。よかったねえわたし、くれのさんがよろこんでくれてよかったねえ。無邪気に言われて、ぞっとした。

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