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「大丈夫? 無理して来なくても良かったのに、家まで送ろうか」
顔を合わせるなり、暮野さんは帰宅を促してきた。無地の黒いシャツにジーンズというラフな出で立ちだった。革のハイキングブーツだけは造りがしっかりしていて目を引いた。彼によく似合うとも感じた。
「透子さん? やっぱり、具合が良くないのか?」
黙っていると更に詰められた。
慌てて首を振り、
「いえ、ものもらいのようなものもらいでもないような、妙な症状になっただけなので」
左目にはめた眼帯を擦りながら言うも、暮野さんはあまり納得した顔をしてくれない。
「そうやって眼帯してると、ひどい病気なのかと心配になるんだけど……」
「杞憂ですよ、問題なく元気です」
まだ何か言いそうだったが、無視して夜の街を歩き始める。追い付いた暮野さんは隣に並んだ。スマホをさっと撫でてから、焼き鳥が好きか問い掛けてきた。
「好きです。ハツと砂肝が」
「じゃあ、焼き鳥屋に行こう。知り合いに勧められた店があるんだ」
了承して、無言のまま道を歩いた。片目に眼帯をしているからか距離感が掴めず、何回か人にぶつかって、ふらついた。植木にぶつかる前に、暮野さんがわたしの腕をさっと引いた。
「透子さん、先導するからさ、俺の背中について歩いてきて」
有無を言わせず後ろへ誘導され、暮野さんの背中を追う形になった。わたしが必ずついていくと限らないのではと不思議に思ったが、道を外れて寄りたい場所は特になく、黒のシャツに包まれた背中を見ながら店まで黙って歩き続けた。
夜の街はにぎやかだったけれど、片目だからかいつもより落ち窪んで見えていた。
鏡越しに見た眼窩の卵はかすかにふるえていた。不思議な話で、視力自体は問題なかった。既に痛くもなく、一晩で馴染んでいた。
しかし見た目の悪さは問題だった。卵自体は眼球に似た色合いだけど、黒目が存在しないため、妙に目立った。目としては使えそうでも、隠すしかないと諦めた。
家には両親が置いていった救急箱があった。探ってみると、目当ての眼帯は見つかった。眼帯は白くてまぶしく、明らかに病気ですと主張する様相だったが、これ以外に良さそうなものがなく、仕方なく装着した。歩行訓練がてらよろよろと家を歩き、何度か角にぶつかった。居間と玄関を繋ぐ廊下を往復して、多少片目に慣れたところで作業場に引っ込んだ。
パソコンを立ち上げようとして、やめた。新聞を敷き詰めた床に散らばる絵の具を掻き集め、混沌とした配色のパレットに新たな赤系統を捻り出した。レッド、カージナルレッド、カーマイン。それからボルドー。
眼帯を一旦外した。更に混沌としたパレットを携え、A4サイズのスケッチブックを開いた。
赤い体の虫を描いた。赤虫みたいなものだ。成虫のユスリカは赤虫ほど好ましくはないため、ずっと幼体でいれば良いとしばしば思う。成長はときどきむごい。
描き上がった絵はスケッチブックから切り離した。絵の具で汚れた赤い指を適当に拭い、スマホを開いて納品日の確認をしたが、その途中にぽんとメッセージが入った。暮野さんかと思ったが、違った。
返信に迷い、保留した。招待券を渡す相手が思い付かず、偶々顔を合わせた山吹さんに一枚あげたことを今更苛立たしく思った。
スマホを閉じて、絵を平らな場所に置いた。乾くまでと残りの絵の具で赤い山や夕陽などを描き続けて、夕暮れの草むらを描こうとしたところで腕が止まった。
暮れた草むら、野原、野山……野辺送り、野焼き。暮野さんはとても名前がいい、と自分の風景画を見ながら思い当たった。
再びスマホが鳴り、山吹さんの続投かと思えば暮野さんで、今度食事に行きたいという無難な誘いには、逡巡もせずわかりましたと返していた。
卵がじくじく痛み始めた。スマホも筆も放り出して眼帯をつけ直すと、すこしだけ治まった。
案内された焼き鳥屋は個人経営のしずかな店だった。炭火の煙を大量に吐く外観は寂れた工場を思わせたが、入れば清潔感があった。スマホで予約を済ませたらしく、暮野さんが名乗ると奥の二人席にすぐさま案内された。
注文をしてからお通しのなめ茸を摘んでいると、
「あ、山吹梢」
聞き慣れた単語が聞こえて驚いた。
「山吹梢?」
顔を上げて、つい聞き返した。暮野さんは店の壁を見上げており、視線を辿ると、数枚のサイン色紙が目に入った。その中に山吹梢の色紙があった。特徴的な文字なので、形だけで彼女のものだとわかった。
「すきなんですか」
「いや」
はやい否定だった。暮野さんは運ばれて来たビールを一口飲み、会ったこともないよと、会える前提のように呟いた。
わたしは初めて、暮野さんに職業を聞いた。
「言ってなかったっけ、シナリオライターだよ」
「……ああ……それなら、山吹さんのことも知ってますね」
「うん。透子さんは知り合い?」
そうです。答えてから、話を切るためにハツの串焼きを齧った。弾力があって、噛み締めるとかすかに血の味がした。なめ茸も砂肝も美味しかったが、米焼酎の種類が少なくて残念だった。
「山吹梢か……」
蒸し返された。よほど苦い思いをしたのか、前髪の隙間には暗い顔が覗いていた。
「お好きでは、ないですか」
聞いてみると首が振られたが、同時に吐かれた溜め息は重たかった。
「好き嫌いは知らない相手だからないけどね、前に、仕事をひとつとられたんだよ。多分、別発注のイラストレーターも下げられた。ちょっとしたゲームのシナリオだったけど、絵もシナリオもクレジットは山吹梢になってた。……どっちも彼女一人いれば出てくるんだから、怖い話だな」
暮野さんは過ぎ去ったように話し、頬杖をついてわたしを見た。目線はなにかを知りたそうだったけれど、わたしは何も言わなかった。
だからか、話題はすぐに切り替わった。暮野さんもぽつぽつと、はじめて会った居酒屋でのように、取り留めなく話し始めた。彼の声は、変に落ち着く響きがあった。でもあまり、心臓の毛羽立ちはおさまらなかった。視界の端に引っ掛かり続ける色紙がどうしても気になった。
山吹梢。彼女がわたしたちの間に浮かんだ事実がたとえようもなく不愉快で、その不愉快さが更に不愉快を煽ってきて堪らなかった。
食事後家に帰り、また痛みに喘いだ。眼帯を剥ぎ取って、いっそ卵ごとと指を食い込ませたが余計に痛むだけで、抉り取れはしなかった。
諦めて指を抜いたところで、ぬちゃりと鈍った音がした。
卵が、勝手に這い出てきた。落ち切る前に、薄い粘膜状の殻が破れて、中身だけがぼとりと床に落下した。
孵化だと理性の内側で知った。
床の上には、ワインレッドの芋虫がうずくまっていた。
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