夏
1
家までの帰り道、あまり通らない路地裏を歩いてみた日だ。細い道路は夜の中でもさらに暗く、夏だったが肌寒さをおぼえた。乗り捨てられた自転車や、浮いた水色のゴミ箱などが、とてもわびしかった。
背の高いビルがふたつ、横並びになっていた。間に挟まれていたのはちいさな居酒屋で、古風な赤提灯が気に入った。スマートフォンで調べてみても特に情報は出てこなかったが、店頭に出ていた品書きは手頃な値段だったため、遠慮なく入った。
中は静かだった。客はぽろぽろといたが、一人客ばかりだった。店主は無口そうな初老の男性で、来店の挨拶だけをして調理に戻った。わたしはひとつだけ空いていたカウンターに腰を下ろした。
冷酒を飲み、エイヒレをかじって、鱒の押し鮨を食べた。鶏皮のポン酢和えを追加して、瓶ビールを一本もらった。料理はどれも美味しくて、ビールにも絶妙に合ったので居座る気になり、品書きをさっと見た。
オクラ納豆が欲しかったが、
「オクラ納豆」
わたしが顔を上げた瞬間、隣の男が先に発した。
「わたしにもひとつ」
ついでだと重ねた。店主はわたしと男を交互に見てから、ひとつの皿に二人分のオクラ納豆を拵えて出してきた。
すこしだけ迷い、横目で隣を見た。男は既にわたしを見ていた。会釈すると瞬きをされて、困惑しているのだろうとは、察した。
「
名乗りながらビールを注げば、どうも、と曖昧な返礼があった。低いのか高いのか判断しにくい、自信があるのかないのかもわからない、隙間に染付くような変わった声だった。
「混ぜて良いですか?」
新たな割り箸を割りながら提案すると、男は頷いた。
「藤宮さん」
「はい」
「俺は、
折り目の正しい、改まった自己紹介をされた。今度はわたしがどうもと頭を下げた。十全に混ぜたオクラ納豆を真ん中に置くと、暮野さんも下げ返して来た。
アルコールを傾けながら、ぽつぽつと話をした。暮野さんは普段、家に篭りっきりらしい。晩酌の時間帯にスーツの類を着ていないのはそのためかと納得した。特に突っ込んでも聞かず、わたしは自分の身の上もろくに明かさなかったが、暮野さん自体はわずかに気に入った。低くて高い声も、冷静そうで無邪気そうな瞳も、掴みどころのない仕草も、色褪せたジーンズも底のある黒いブーツも、取り合わせが悪いのに馴染み合う奇妙さが面白かった。珍しいことだった。
「藤宮さんは、普段は何をしているんですか」
自分ばかり話しているからか、暮野さんはふと興味を向けてきた。
「普段、ですか」
「はい。いや、お仕事とか、趣味とか、好きなものとか、答えられる範囲で」
すべて、一言で済む質問だった。
「虫です」
虫の絵を描き、虫を飼育し、虫を愛でて暮らしていた。たった一人で、暮らしている。
ビールを一口飲み、カウンターの向こう側を見る。並んだ品書きの羅列を意味もなく追っていると、暮野さんに呼び戻された。彼は、虫ですか、となぜか深刻そうに聞き返してきた。
「虫です。蜘蛛でも、百足でも、なんでも」
「それは、好きなもの?」
「仕事や趣味でもありますよ。でも、虫が好きです。しずかなので」
「犬とか猫とか、鳴き声が苦手って人もいますしね」
「そうですね」
結露したグラスを持ち上げる。水で割った米焼酎は、氷が溶けて更に薄い。オクラ納豆もなくなり、その後追加で頼んだあら汁も飲み終わった。スマホを見れば、もう一時間以上経っていた。
会計をしようかと伝票を見るが、わたしが立ち上がるよりも早く、暮野さんがまだ話した。
「昔、蝶を飼ってたよ」
ごく自然に、彼の敬語は剥がれていた。
「綺麗だった。……実家は田舎で、農家だったんだ。畑があった。そこで父親がキャベツなんかを、育てていたんだけど、よく青虫がついてて。でも俺は、たまたま通りがかった農園の木にいた、目玉みたいな模様の芋虫を気に入ったんだ。連れて帰って、世話したよ。農園のおじさんに頼んで、木の葉っぱを分けてもらって、芋虫に食べさせた。そのうち蛹になって、蝶になった。本当に綺麗だった。妖精とか天使とか、そういう生き物だって小さい俺は信じてたし、名前をつけて大事にしていたけど、明くる日部屋に入った虫嫌いの母親が捨てちまった」
独白のように暮野さんは話し続けた。はっとした顔でわたしを見て、殺してはないと思うよと、配慮のような付け足しをした。目にかかる前髪の隙間から、戸惑った瞳が覗いていた。きれいな目玉だと、思った。
持ったままのグラスを置いた。結露が生んだ小さな輪が、テーブルの上にいくつもあった。まばたきをするとなぜか目の奥が痛んだ。わたしは冷酒を頼んでから、てきぱきと作業をする店主さんを見つめ、暮野さんに聞いた。
「なんて名前を、つけたんですか」
返事はなかった。横目を送れば、忘れてしまったと返ってきた。暮野さんは考えるように視線をさまよわせたが、やはり思い出せないようで、捨て鉢みたいにビールを煽った。
届いた冷酒を傾ける。それが空になる手前、暮野さんは連絡先を聞いてきた。飲み干してから、スマホを取り出した。電話番号を読み上げようとすれば慌てて止められた。
「個人情報を高らかに宣言するなよ」
「問題が起きれば、解約します」
「じゃなくてさ……」
暮野さんは苦笑いを浮かべ、変わってるね透子さん、また一緒に酒を飲みたいなと、黒いスマホを卓上に置きながらはっきり話した。
アドレスと電話番号を交換した。暮野さんと連れ立って店を出たが、帰る方向は逆だった。狭い路地裏の中で暮野さんは振り返り、連絡しますと真剣な声を出した。わたしは頷いた。意識していなかったが、頷いたようだった。
路地裏の切れ目から、大通りの光があふれている。縦長に切り取られたまぶしさだ。暮野さんはその、夜に浮かぶ灯りを目指すように歩いていって、わたしは二歩進んでから、振り向いた。彼も、振り向いていた。さっと手を上げて振る動作が子供みたいだった。
彼は数歩進んでは振り返り、佇むわたしを何度も確認していたが、ゆったりと光へ溶け込み、名残惜しそうに消えていった。
無人になった空間を見つめていたが、ふとまぶしさに苛立ち、左目を掌でおおった。
異変は帰宅後すぐに起きた。一人暮らしの家なので、上がり框に倒れても誰も来なかった。わたしの呻き声が暗い廊下に響き渡った。飼っている虫のうごめく音が、その合間を縫い付けた。
はじめは心臓の辺りが絞られたように痛かった。呑みすぎたのかと疑ったが違って、痛みはじわじわ上昇した。
虫がゆっくりと這うさまを、生ぬるい木の板に転がりながら思い浮かべた。それはやがて左側の眼球まで来た。目の奥が激しく痛み、わたしの意識は一旦途切れた。
気付くと家の中がほんのりと明るくなっていた。廊下で眠ったらしいと、木目調の廊下板を間近に見つめながら、覚醒待ちついでに考えた。全身怠かったが、起き上がれた。壁伝いに洗面台へと向かって、鏡を覗いて絶句した。
左目があるはずの穴に、つるりとした虫の卵がおさまっていた。
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