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 暮野直矢くれのなおやという人には仕事でもなく紹介でもなく偶然出会った。

 家までの帰り道、あまり通らない路地裏を歩いてみた日だ。細い道路は夜の中でもさらに暗く、夏だったが肌寒さをおぼえた。乗り捨てられた自転車や、浮いた水色のゴミ箱などが、とてもわびしかった。

 背の高いビルがふたつ、横並びになっていた。間に挟まれていたのはちいさな居酒屋で、古風な赤提灯が気に入った。スマートフォンで調べてみても特に情報は出てこなかったが、店頭に出ていた品書きは手頃な値段だったため、遠慮なく入った。

 中は静かだった。客はぽろぽろといたが、一人客ばかりだった。店主は無口そうな初老の男性で、来店の挨拶だけをして調理に戻った。わたしはひとつだけ空いていたカウンターに腰を下ろした。

 冷酒を飲み、エイヒレをかじって、鱒の押し鮨を食べた。鶏皮のポン酢和えを追加して、瓶ビールを一本もらった。料理はどれも美味しくて、ビールにも絶妙に合ったので居座る気になり、品書きをさっと見た。

 オクラ納豆が欲しかったが、

「オクラ納豆」

 わたしが顔を上げた瞬間、隣の男が先に発した。

「わたしにもひとつ」

 ついでだと重ねた。店主はわたしと男を交互に見てから、ひとつの皿に二人分のオクラ納豆を拵えて出してきた。

 すこしだけ迷い、横目で隣を見た。男は既にわたしを見ていた。会釈すると瞬きをされて、困惑しているのだろうとは、察した。

藤宮透子ふじみやとうこです」

 名乗りながらビールを注げば、どうも、と曖昧な返礼があった。低いのか高いのか判断しにくい、自信があるのかないのかもわからない、隙間に染付くような変わった声だった。

「混ぜて良いですか?」

 新たな割り箸を割りながら提案すると、男は頷いた。

「藤宮さん」

「はい」

「俺は、暮野直矢くれのなおやです」

 折り目の正しい、改まった自己紹介をされた。今度はわたしがどうもと頭を下げた。十全に混ぜたオクラ納豆を真ん中に置くと、暮野さんも下げ返して来た。

 アルコールを傾けながら、ぽつぽつと話をした。暮野さんは普段、家に篭りっきりらしい。晩酌の時間帯にスーツの類を着ていないのはそのためかと納得した。特に突っ込んでも聞かず、わたしは自分の身の上もろくに明かさなかったが、暮野さん自体はわずかに気に入った。低くて高い声も、冷静そうで無邪気そうな瞳も、掴みどころのない仕草も、色褪せたジーンズも底のある黒いブーツも、取り合わせが悪いのに馴染み合う奇妙さが面白かった。珍しいことだった。

「藤宮さんは、普段は何をしているんですか」

 自分ばかり話しているからか、暮野さんはふと興味を向けてきた。

「普段、ですか」

「はい。いや、お仕事とか、趣味とか、好きなものとか、答えられる範囲で」

 すべて、一言で済む質問だった。

「虫です」

 虫の絵を描き、虫を飼育し、虫を愛でて暮らしていた。たった一人で、暮らしている。

 ビールを一口飲み、カウンターの向こう側を見る。並んだ品書きの羅列を意味もなく追っていると、暮野さんに呼び戻された。彼は、虫ですか、となぜか深刻そうに聞き返してきた。

「虫です。蜘蛛でも、百足でも、なんでも」

「それは、好きなもの?」

「仕事や趣味でもありますよ。でも、虫が好きです。しずかなので」

「犬とか猫とか、鳴き声が苦手って人もいますしね」

「そうですね」

 結露したグラスを持ち上げる。水で割った米焼酎は、氷が溶けて更に薄い。オクラ納豆もなくなり、その後追加で頼んだあら汁も飲み終わった。スマホを見れば、もう一時間以上経っていた。

 会計をしようかと伝票を見るが、わたしが立ち上がるよりも早く、暮野さんがまだ話した。

「昔、蝶を飼ってたよ」

 ごく自然に、彼の敬語は剥がれていた。

「綺麗だった。……実家は田舎で、農家だったんだ。畑があった。そこで父親がキャベツなんかを、育てていたんだけど、よく青虫がついてて。でも俺は、たまたま通りがかった農園の木にいた、目玉みたいな模様の芋虫を気に入ったんだ。連れて帰って、世話したよ。農園のおじさんに頼んで、木の葉っぱを分けてもらって、芋虫に食べさせた。そのうち蛹になって、蝶になった。本当に綺麗だった。妖精とか天使とか、そういう生き物だって小さい俺は信じてたし、名前をつけて大事にしていたけど、明くる日部屋に入った虫嫌いの母親が捨てちまった」

 独白のように暮野さんは話し続けた。はっとした顔でわたしを見て、殺してはないと思うよと、配慮のような付け足しをした。目にかかる前髪の隙間から、戸惑った瞳が覗いていた。きれいな目玉だと、思った。

 持ったままのグラスを置いた。結露が生んだ小さな輪が、テーブルの上にいくつもあった。まばたきをするとなぜか目の奥が痛んだ。わたしは冷酒を頼んでから、てきぱきと作業をする店主さんを見つめ、暮野さんに聞いた。

「なんて名前を、つけたんですか」

 返事はなかった。横目を送れば、忘れてしまったと返ってきた。暮野さんは考えるように視線をさまよわせたが、やはり思い出せないようで、捨て鉢みたいにビールを煽った。

 届いた冷酒を傾ける。それが空になる手前、暮野さんは連絡先を聞いてきた。飲み干してから、スマホを取り出した。電話番号を読み上げようとすれば慌てて止められた。

「個人情報を高らかに宣言するなよ」

「問題が起きれば、解約します」

「じゃなくてさ……」

 暮野さんは苦笑いを浮かべ、変わってるね透子さん、また一緒に酒を飲みたいなと、黒いスマホを卓上に置きながらはっきり話した。

 アドレスと電話番号を交換した。暮野さんと連れ立って店を出たが、帰る方向は逆だった。狭い路地裏の中で暮野さんは振り返り、連絡しますと真剣な声を出した。わたしは頷いた。意識していなかったが、頷いたようだった。

 路地裏の切れ目から、大通りの光があふれている。縦長に切り取られたまぶしさだ。暮野さんはその、夜に浮かぶ灯りを目指すように歩いていって、わたしは二歩進んでから、振り向いた。彼も、振り向いていた。さっと手を上げて振る動作が子供みたいだった。

 彼は数歩進んでは振り返り、佇むわたしを何度も確認していたが、ゆったりと光へ溶け込み、名残惜しそうに消えていった。

 無人になった空間を見つめていたが、ふとまぶしさに苛立ち、左目を掌でおおった。


 異変は帰宅後すぐに起きた。一人暮らしの家なので、上がり框に倒れても誰も来なかった。わたしの呻き声が暗い廊下に響き渡った。飼っている虫のうごめく音が、その合間を縫い付けた。

 はじめは心臓の辺りが絞られたように痛かった。呑みすぎたのかと疑ったが違って、痛みはじわじわ上昇した。

 虫がゆっくりと這うさまを、生ぬるい木の板に転がりながら思い浮かべた。それはやがて左側の眼球まで来た。目の奥が激しく痛み、わたしの意識は一旦途切れた。


 気付くと家の中がほんのりと明るくなっていた。廊下で眠ったらしいと、木目調の廊下板を間近に見つめながら、覚醒待ちついでに考えた。全身怠かったが、起き上がれた。壁伝いに洗面台へと向かって、鏡を覗いて絶句した。

 左目があるはずの穴に、つるりとした虫の卵がおさまっていた。

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