第16話 甘い香りに騙される




 テーブルの上には一輪の赤い花が揺れている。

 ふわりと甘い香りが漂い、鼻先をくすぐる。ジョシュアはその匂いで肺を満たすように軽く深呼吸をして、隣に座る婚約者の肩を抱いた。


「ディゼル。君のご両親をこっちに呼ぶことは出来ないのかい?」

「そうですね……私の方から手紙を出しておきますわ」


 もちろんディゼルは親を呼ぶ気もないし、手紙も出すつもりはない。適当に話を合わせながら、楽しそうに結婚式の準備を進めていく。

 あれからジョシュアの元婚約者とその両親が殴り込みに来たのかと思うくらいの勢いで屋敷を訪れたが、ジョシュアの父が追い返した。


「でも、本当に良かったのでしょうか?」

「何が?」

「私のせいで、悲しむ人が……」

「彼女のことを言ってるのか? それなら君が気にすることじゃない。俺が、君を愛してしまっただけなんだ」

「ジョシュア様……」

「それに、元々政略結婚だ。お互いに愛もない……」


 ジョシュアは目を伏せてそう言った。

 彼は親に決められた道を進んでいくことに悩んでいたらしく、ディゼルに出逢って運命を感じたのだと恥ずかしげもなくそう告げた。

 しかしそう思っているのは彼だけ。これは運命でも何でもない。

 それに、ジョシュアは政略結婚と思っているが、婚約破棄を言い渡された彼女の表情を見るからに向こうは少なからず本気だったのだろう。

 とはいえ、そんなことディゼルには関係のないこと。目的はただ一つ、不幸と復讐のみ。

 彼らに恨みはないが、愛する悪魔のため。


「俺が愛しているのは、君なんだ。ディゼル……」

「嬉しいですわ、ジョシュア様……」

「父も君を気に入ってる。きっと俺達は良い家庭を築けるだろう」

「良い、家庭……そうですわね」


 良い家庭のイメージがディゼルにはなく、一瞬言葉に詰まってしまった。

 良い親、良い家族とは何なのだろう。親から虐げられていたディゼルには分からなかった。

 ジョシュアの父はディゼルに優しくしてくれた。こういうのが良い親なのかもしれないとは思ったが、優しいだけの人間も信用できない。

 誰にでも優しい、皆から愛される主人公として描かれていたトワもディゼルから見れば、ただの偽善者。物語には描かれていないところでは虐待されていた姉を無視し続けた。


「そういえば、最近噂に聞いたんだが……悪魔の娘と言うのがいるらしい」

「悪魔の娘、ですか?」

「ああ。軽く耳にした程度だが……遠くの村で原因不明の病か何かが流行ったとか……」


 ディゼルは表情を変えず、ジョシュアの話を聞いた。

 村の名前すらハッキリせず、内容もふわりとしたことしか分かっていないようだ。しかし不思議な娘の噂が広がってきているのは確からしい。

 だがあくまで噂。そう簡単に人間が病をまき散らすことが出来るわけがない。そういう固定概念がある限り、疑われることもない。

 いま、彼は。彼らは、悪魔の娘の虜になっているのだから。



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