黒い霧に浚われて
「いってきまーす……」
数日後。
私はこの日もほとんど眠れないまま起きて、ご飯の支度をしてから家を出た。
辰之助から返事はなかった。自分の布団でぐぅぐぅ眠っていたのだから。
私はここに置いてもらってから、納戸であった小さな部屋を借りて寝ているのだけど、先日の一件以来、どうも緊張してあまり眠れなくなってしまった。
なにしろ部屋は別でも鍵はないのだ。入ってこられたら逃げられようがない。
けれど幸い、そのようなことは起こらなかった。
辰之助に節度があったのか、それとも単純に怪我をしたのだから、すぐに治るはずもなし。それどころではないのか。
どちらかわかるすべはないけれど。
辰之助の怪我は順調に快方に向かっているようだ。
少なくとも膿んだり悪化はしていないようであるし、それなら毎日薬を塗っておけばいいと言っていた。
本当はお医者にかかったほうがいいと思うのだけど、と思いつつも、私は口を出せることではないので、ただ、毎日薬を塗って、包帯を替えてあげるだけになっていた。
そのような中であまり眠れないのは辛いのだけど、それでも毎日、朝は来る。
辰之助は道場の世話になっていて、半分働いているような立場ではあるらしいが、決まった時間に毎日出掛けて……というのはしていないらしい。そこも不良らしいことなのであった。
けれど私は居候である。ぼうっとしているわけにはいかない。
家でご飯を作るほかに、道場のお手伝いをさせてもらうようになっていた。
朝ご飯は自宅で辰之助と食べるので、道場のお流と宗太郎のぶんは手伝えないのだけど、道場の掃除をしたり、お昼ご飯を作ったり、先日、子一郎の着物の繕い物をしてあげたのもあってか、簡単な縫い物も任せてもらうようになった。
繕い物に関しては辰之助にも褒めてもらった。
子一郎の直った着物の裾をしげしげ見て「こりゃあ、元より綺麗になったんじゃないか」なんて子一郎にからかうように言っていた。
夜には夕ご飯も作ったりする。そして夕ご飯は辰之助も一緒に食べていくこともあるのだった。
そのような日々。
道場は辰之助の家からそう離れていないし、なにしろ朝なのだから人通りもある。なにも心配せずに家を出た。
すっかり履きなれた草履で道を行く。
しかし、少し不思議だなと思った。季節が進んだためかもしれないが、今日は霧が濃いのだ。
そろそろ寒くなる季節だから霧自体はおかしくない。けれど今朝はだいぶ濃い。
雨でも降るのかしら、なんて思った私だったけれど、それはどうやら呑気すぎることだったようなのだ。
不意に、ざぁっとその濃い霧が一瞬、私の目の前に広がった。私は驚いて、腕で顔を覆う。
が、それは一瞬であった。すぐに、すぅっと引いていく。
ほっとした、けれど。
目の前にひらっと見えるものにどきっとした。それは先日、繕ってやった子一郎の着物ではないか。たたっと駆けて行くようだ。
こんな霧の濃い中で走ったら危ない。転ぶかもしれないし、道も間違えるかもしれない。
「子一郎くん!」
私は声をかけたのだけど、先日の着物をまとった子一郎の背中は遠ざかっていくばかり。
私は少し迷ってそちらに足を向けた。
放っておくのは危ないだろう。いくらこの世界に住み慣れている子と言っても、なにしろ子供であるのだから。
しかしそれは正しかったのか。
私が進んでいくうちに、霧の様子は変わっていった。
白いものではなく、灰色がかったものに、それからグレーが濃くなっていって……。
ぎくりとして、立ち止まった。私の身は濃いグレーの霧にすっかり包まれてしまっている。
もやもやしたもの……灰色……もう黒に近いほどの色……。
これは、まさか。
ひゅっと、心臓が冷えた一瞬。
ぶわっと私の周りに黒いものがまとわりついてきた。
「きゃ……!」
霧にまとわりつかれた、と思ったのに、それは重くて暗くて、息すら詰まりそうであった。
これは、まさか。
同じことを、もっと強く感じてしまって、それは多分当たっていた。
「戌の刻の娘、その身、もらい受ける」
黒い霧の中から声がした。まるで地底から這い上がってくるような声に、私はぞくっとしてしまう。
いぬのこく、ってなに?
私はそんなものじゃない……。
言いたいのに声が出ない。詰まりそうな息はどんどん薄くなっていって、それと同時に私の意識も薄らいでいって。
倒れる、と思ったのに倒れる感覚はなかった。
ただ、意識が霧に呑まれたように、すぅっと遠くなっていった。
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