宮の中で

「ん……」

 意識がゆっくりと体に戻ってくる感覚がして、私は目を開けた。

 どこかに倒れているようであった。体の下は固い感触。

 むくりと起き上がると、板張りの床の上に居たのだと気付く。


 どうしてこんなところに。


 私は首をひねってしまった。

 次に居場所の周りを見てみた。

 だいぶ豪華な部屋であった。

 道場とも辰之助の家とも比べ物にならない。

 私は歴史の教科書でしか見たことがないが、平安時代の家、のようなイメージだ。

 少し離れた向こうには畳の間があり、その上には、御簾(みす)……といったか。薄い布の綺麗なカーテンのようなものがかかっていて。

 調度品も見るからに高そうなもの。箪笥、壺、絵画も飾ってある。

 ただしひとはいない。誰もいなかった。

 家を出たのは朝だけど、今はいつなのかと見回しても、窓はないようで時間などはわからなかった。

 部屋の中が見えるのは灯かりが灯っているからだ。電気ではないに決まっていたが、ろうそくの灯かりより強い光源であろう灯かりが使われているようで、ものを見るのに支障はない。

 一体、どうしてこんなところにいるのか。

 私はもう一度、首をひねってしまったのだけど。

 がらり。

 そこで音がした。引き戸の開く音だ。

 私はぎくっとした。

 こんなところで出くわす人物、良いものであるとは思えなかったのだ。

 そして多分、それは当たっていた。


「目覚めたか、戌の子」


 入ってきたのは男性だったが、ひと目でわかった。

 これは辰之助が言っていた『陰陽師』か、その関係者なのだろうと。平安時代の貴族のような格好をしていたのだから。

 わずかな時間ながら、ここまで過ごしていた街のひとたちとはだいぶ違う印象だ。

 しかし、いぬのこ、とはなんのことだろう。

 まさか子犬ではあるまい。

 私は首をひねったけれど、とりあえず理解した。

 ここはあまり良くない場所で、私は良くない状況の中にいるのだろうと。

「……どうして……」

 言いかけて、止まってしまった。


 どうしてこんなところに連れて来たんですか。

 どうして私なんですか。

 どうして『いぬのこ』なんですか。


 聞きたいことがありすぎて、ひとつにできなかったからだ。

 混乱している私の様子を見ただろうに、いや、見たからこそか。

 彼はふっと、笑みを浮かべる。私はその笑みに、逆にぞくっとしてしまった。

 ここからどうなってしまうというのだろうか。

「貴様を元の世界に戻してやるために呼んだのだぞ。感謝してほしいものだな」

 言われたことに、え、と思ってしまった。

 それだけは声になったくらいだ。


 元の世界に帰れる?


 今までの私だったらもろ手を上げて喜んだだろうに、この状況では喜べるものか。

 怪しすぎるひとに言われて帰れるなんて、そもそも信じられない。


 いや、待って。

 戻すってことは、このひとが私をここへ連れて来たってこと?


 謎は謎を呼んで、私はとりあえずそれから聞いてみた。

「あなたが……私をここへ?」

 そうだ、とかその通りだ、とか、とりあえず肯定されると思ったのに、言われなかった。むしろ逆のことを言われる。

「いいや。お前の存在など邪魔にしかならん。だから突っ返すのだしな」

 酷い言い様である。私はムッとしてしまった。

 望んでやってきたわけでもないのに、なんてことを。

「好きで来たわけじゃありません」

 思わず言い返していた。

 言い返してから、ひやっとする。逆らうようなことをしたらいけなかったのではないか。

 その私を見て彼は逆に笑みを浮かべた。歪んだ笑みを。

「それなら尚更、良いではないか。感謝してほしいものだな」

 私は今度、返事が出てこなかった。

 実際、彼の言うとおりである。

「帰すのだから、教えておいてやろうか。お前、戌の刻の生まれだな」

「戌の刻……?」

 戌の刻、という言葉はかろうじてわかった。

 昔の日本で、時間を表していた言葉だ。

 それに私の名前にも『戌』が入っている。

「お前の世界ではなんの作用もなかったかもしれないが、ここにその力を持ってこられると困るのだよ」

 彼は口の端を上げて言った。

 私にはなんらかの力があるらしい。

 特殊能力とか?

 にわかには信じがたいが、なにしろこの世界では妖魔なんてわけのわからないものがいる。

 辰之助だって、それを祓うという力を持っている。

 特殊能力だって『そんな作り話』なんて笑い飛ばすこともできない。

「そのお前を呼んだ者が誰か、気になるだろう」

 言われて、何故か私の胸の中が、ざわりと騒いだ。


 これは聞いてはいけない気がする。


 ただの予感であったが、そう感じた。

 そしてそれはその通りであった。


「辰之助、とか言ったか。祓い師だ」


 ひゅっと心の中に冷たい風が吹いた。


 辰之助が?

 私を呼び寄せた張本人……?

 しかも祓い師とはなんだろう。


「しかも己の力に利用しようとして呼び寄せたのだからな、まったく、利己的なやつだ」

 次のものは吐き捨てるようだった。

 私は混乱の中で、むっとしてしまう。

 意味はわからないが、そもそもこのひとの言うことがすべて正しいとは限らないじゃない、と気を取り直したのだ。

 私を騙そうと思って言っているだけかもしれない。


 ううん、きっとそう。動揺して、辰さんを疑うようなほうに仕向けて……。


 私は必死で良い方向へ思考を向けようと努力した。

 私を助けてくれたひと。

 ここまでこの世界で生かしてくれたひと。

 そんなひとのわけがない。


「辰さんはそんなひとじゃない!」


 よって言った。抵抗するように。

 私が言い返すとは思わなかったのか、男は目を丸くした。

 が、すぐにその目は細くなる。

 にぃ、という笑いに変わった。

「そうか。それは随分、信頼を植え付けられたものだ」

 そう言って、不意に一歩、踏み出した。私はぎくっとして、一歩引いた。

 しかし男はこちらへ歩いてくる。歩みを止めることはない。

 私はうしろへ下がるしかなかったのだけど。

 ついに御簾のやわらかな布まで追い詰められてしまった。


 これをめくれば逃げられるかしら。

 別の部屋に通じているとかで、時間稼ぎくらいにはなるかも……。


 思って私は、ばっとそれをめくったのだけど……その先の光景を見て後悔した。

 ひゅう、と何故か風が起こった。


 御簾の向こう。

 ぽっかり窓が開いていたのだから。


 その窓は開いていたのに、そしてここまで御簾の布が揺れることはなかったのに。

 急に風が起こったのだ。明らかに普通ではない。

「ほら、そこから帰れるぞ。跳び下りるがいい」

 男はじりじりと私を追い詰めながら言った。

 帰れる、なんて。

 でもとりあえず、この場は離れられる。

 私は窓に手をかけた。

 が、その下を見て拍子抜けする。

 だってその下はただの土の地面だったのだから。

 この世界そのままではないか。どう見ても、私の世界に通じているという様子ではない。

 ただし高かった。

 見たところ、私の世界の建物でいう三階建てくらいはあるだろう。

 飛び下りて逃げるなどできそうにない。

 死にはしないだろうが、どこか怪我をするくらいはするだろう。

 そして、こんなところで怪我を負えば、易々と捕まってしまう……。

 私はもう一度、窓の外から室内に視線を戻した。男を睨みつける。

「嘘をつこうったってそうはいかないわ」

 状況的には進退窮まったといっていいが、だからといってこんなところから飛び下りるものか。

 馬鹿にしてもらっては困る。

 帰れる、なんて甘言で騙そうなんて、そんな単純であるものか。

「嘘などであるものか。……仕方がない」

 男はひとつため息をつき、左手を前に突き出した。

 なにをするの、と思った直後。

 その左手の手のひらの中心。黒いものがどろりと湧き上がってくる。

 私の体は固まった。

 あれは、まさか、妖魔。

 けれどそんなわけはない。

 だってこのひとは陰陽師でしょう。

 妖魔を祓いに来たのでしょう……。

 それが、このひとの手から、出てくるわけが……。


「行け」


 男は冷たい声で言い……次の瞬間、ギュンッ、と私のほうへ一直線にその黒いものが放たれていた。

 まるで生きているように、うねりながら私に近付いてくる。

「きゃ……!」

 逃げられるわけがない。私は身を固くするしかなかったのだけど、そのとき。


「夜留子!!」


 窓の外から声がした。

 誰、と一瞬、思ったけれどわからないはずがなかった。

 辰之助だ。

 声だけでわかる。


「跳べ!」

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