流血とキス
辰之助の家、長屋の一室。
薄明りの中で、今日役に立ったソーイングセットの手入れをしていた。
糸が出しっぱなしになっていたので、綺麗に巻きなおしたりとかそのくらい。
何故だか入っていたものだったけれど、役に立って良かった、と思う。
子一郎にお母さんがいないことも、この世界ではそれが特別珍しいことではないことも、両方心が痛んだけれど。
私はもう少しこの世界のことを知ったほうがいいのか、それとも帰る方法を模索したほうがいいのか、まだ測りかねていた。
そりゃあ帰りたいに決まっている。
けれどできるのかはわからない。
なにしろ屋上から落ちて、気付いたらこの世界に居たという経緯なのだ。
同じように高いところから落ちれば、ショック療法ではないが同じことが起こって帰れるかもしれない、と一瞬だけ思ってぞくっとした。
そんなこと。
ビルほど高い建物などこの世界にあるとは思えないし、それにもし起こらなければ当たり前のように死んでしまう。そんな博打のようなことは試せない。
つまり私はさしあたってのところ、この状況に一旦、慣れるしかないのであった。
手入れも終わって、私は今度、明日の朝、炊くお米の支度でもしようと思ったのだけど、そこへ大きな音がした。
ガラッ!
ガシャン!
びくっとしてそちらを見た。
だがすぐにほっとした。入ってきたのは辰之助だったのだから。
「辰さん! おかえり、な、さ……」
顔を明るくして言いかけた私。
でもその目はすぐに見開くことになる。
辰之助は着物を破けさせ、肩から血まで流した様子だったのだから。
その姿で乱暴に戸を開けたから、あの大きな音がしたのだ。
「た、辰さん!? ど、どうしたんですか、その怪我……」
私はお米を入れたお鍋を放り出して、辰之助の元へ向かった。
辰之助はなんとかという様子で、土間から居室の段差にどさっと腰を下ろす。
「あー……、大したことねぇわ」
そう言ったけれど、声は弱々しかった。
押さえた肩、破けた着物の中からは血が伝っている。
私の心臓が嫌な具合に冷えた。
ひとがこれほどの怪我をしているところなんて、そうそう見たことなんてない。
「そんなはずないじゃないですか! なにか手当をするものはありますか!?」
私は慌ててしまいつつも、手当をすることを思いついた。
血を拭いて……薬を塗って……あ、違う。その前に傷を消毒しないといけない。
こんな大掛かりな治療、私にできるのだろうか、と思うも、するしかない。
辰之助は私の慌てようにかえって落ち着いたのか、笑みを浮かべた。
「ああ……、そっちの棚に、薬とかあるけど、あとで」
「いけません! こっちですね!? 開けますよ!」
でもその笑みで安心できるものか。私はきっぱり言い返し、言われた通りの棚に手をかけた。
がらっと開けると、確かに薬箱らしきものがある。それを引っ張り出した。
箱自体も開けると、塗り薬、包帯、当て布……色々入っていた。
私はそれを見て、少しほっとした。これで応急処置くらいはできそうだ。
「うぐぅぅぅ!」
けれどそのとき大きな苦痛の声がして、私の一旦ほっとした心臓が、ひやっと冷えた。
まさか痛むのだろうか?
それとも別の悪いことが……?
ばっと振り返って……もう一度心臓が冷えた。
「な、なにをしてるんですか!」
辰之助は着物を上半身だけ脱ぎ、はだけて、できた傷らしき部分に、大瓶の日本酒をぶっかけていたのだから。
傷口にそんなものを。
私はその理由もわからず、おろおろしてしまった。
日本酒なんて染みるだろう。
「た、辰さん……なんで」
おろおろしつつ、薬箱を抱えて近寄ったのだけど、辰之助は歪んだ顔を私に向けて、無理に笑ったという顔をして日本酒をもう少し、今度は大人しめにかけるのだった。精悍な顔がまた歪む。
「消毒、だよ……っ、くぅ、痛ぇ!」
言われて、やっと思い当たった。
消毒をするのにはアルコールが有効。
そして日本酒はまさにアルコール。
……だからといって、飲むためのそれをぶっかけるだろうか!?
あぜんとしてしまった私だったが、辰之助は手ぬぐいでそこを押さえている。しばらく置くのだろう。
「酒、ぶっかけて薬、塗りゃ治るからよ。心配すんな。ほっとくほうが膿んで死んじまう」
死んじまう、にはもっと心臓が冷えた。
辰之助が死んでしまったらショックどころではない。
私はおろおろするやら、ひやひやするやら、恐ろしくなるやらだったけれど、そのあとは辰之助の指示する通りに傷口をそっと拭き、軟膏を塗りつけ、包帯を巻いた。
辰之助は荒療治すぎる消毒に満身創痍という顔ではあったが「これで良し」と言って、私はほっとした。
だが手当てが終わったら気になることがある。
「辰さん、どうしてこんな怪我を……」
私は冷たいお水を汲んできて、湯吞みに入れて、出しながら聞いた。
辰之助は怪我をしていないほうの手でそれを受け取り、がぶがぶと飲んでからなんでもないように言う。
「ちっと喧嘩、吹っ掛けられただけだよ」
……喧嘩!?
まったく、私の心臓をあまり刺激しないでほしい。ぞくっと体が震えてしまった。
「ま、よくあることさ。大丈夫だぜ、叩きのめしてきたし、今度、お礼参りを」
なのに辰之助はにやっと笑うのだった。これほどの怪我をしておいて。
「そんな……やめてください!」
思わず言っていた。けれどその言葉、辰之助にはじろっと睨まれてしまった。
「夜留子。あんたのことは、仮に置いといてやってるだけだ。口出すんじゃねぇ」
そのじとっとした目。どこかぎらついているように見えて私は息を呑んでしまった。
それにその通り、私はただの、仮住まいの居候。
口を出す権利なんてない。
だからそれ以上、なにも言えなかった。
ただ俯いてしまう。
そういえば聞いていた。
辰之助は『ばらがき』だと。
いわゆる不良なのだと。
だから喧嘩くらい、日常茶飯事なのかもしれない。
そう考える。ただ、それは自分に理由付けをして、言い聞かせるものであったけれど。
けれど心配でないはずはない。
だって私を助けてくれて、養ってくれて、居場所までくれたひとだ。
こんな酷い怪我なんてしてほしくないし、恐ろしい目にも遭ってほしくない。
「……心配です」
私はぽつりと言った。
今、言えるのはこれだけだった。その事実に不甲斐なくなる。
でも間違いではなかったらしい。
「女に心配してもらえるなんて、俺ぁ果報者だね」
辰之助の目つきは、多分変わった。口調もいつもの茶化すような、からかうようなものになる。
私は少しだけほっとした。
これは不快にはさせなかったようだ、と。
だが次の瞬間、私の心臓はまた跳ねることになる。
ただし今度は、かっと熱く。火がついたように。
ほっとして顔を上げたところ。
いつの間にか膝を詰めてきていた辰之助が、頬に触れて、あっと思う間もなくくちびるを合わせられていたのだから。
私の心臓が喉の奥まで来たかと思うほど、強く跳ね上がった。
なに、これ、キス、どうして……。
目を閉じる余裕などあったはずがない。
ただ、呆然と目の前の辰之助の伏せられたまぶたを見ているしかなかった。
何故か体がぽかぽかとしてくるように感じられたけれど、私にそんなことを自覚して、不思議に思う余裕はなかった。
それはたった数秒であっただろう。私にとっては時間感覚など消え失せていた時間だったけれど。
顔を引いて、キスを解いて、目を丸くして固まった私を辰之助は見た。
なんだか変な顔をしている。キスなど仕掛けてきたあとの表情としては、あまりないもののような。
私はぼうっとしたまま、それでも感じた。
「夜留子、あんた、本当に……」
ぽつりと呟く。
私はまたしてもわからなかった。
本当に、なに?
辰之助は目を丸くしたまま、なにか考えるように、あごを撫でた。
が、すぐにその表情は消えてしまう。代わりににやっと笑うようなものになった。
「いや、なんでもねぇ。くちづけで怪我は治るっていうからな」
……くちづけで?
キスで?
治る……?
私は頭の中で呆然と繰り返すしかなかった。
そんなはずはない。
だって怪我をしたのは肩と腕ではないか。
それでどうしてキスをして治るというのか。
私は混乱して、それがからかいであることもわからなかったのだけど、不意にはっとした。殴られたようにまともな思考が戻ってきた。
ばっと身を引いて、くちびるを押さえる。遅すぎることなのに。
かーっと顔が熱くなってくる。心臓は跳ねただけでなく、ばくばくと速すぎる鼓動になって、呼吸すら苦しくなる。
キス、されてしまった。
別に初めてではないけれど、慣れてはいない。
そう、こうして動揺してしまうほどには慣れていない。
おまけに相手が相手だ。
いや、別に片想いの相手とかではないのだけど。
いやいや、違うのか?
私は混乱してしまって、頭の中はぐちゃぐちゃになりそうだった。
そんな私を見て、辰之助がにやにやしたのもはっきり認識できないほどであった。
「あんたがあんまり殊勝でかわいいことを言ってくれるもんだからな。効いたぜ」
「な、なに、……がです」
効いたって、なににだろう。
私は馬鹿のように聞いてしまったのだけど、それは直後、後悔することになる。
「あんまり甘かったもんだからな」
再び、かっと顔と体が熱くなる。
くちびるの様子……キスの感想なんて聞いてしまったら。
もうたまらなかった。私はなんとか立ち上がる。
衝撃やら、慣れない座り方をしていたやらでふらついたけれど、足に力を入れて逃げるようにその場を離れた。
「か、か、からかわないでください! 怪我人なのに!」
多分、顔は真っ赤になっているだろう。
当たり前だ、キスなどされてしまっては。
でも辰之助はまったく気にした様子もなく、挙句、調子に乗ったことなど言ってくる。
「お? そう言ってくれるならもう一回……」
「お断りです! お茶を淹れます!」
「はい!」なんて言えるものか。
私はなんとかそう言って土間へ降りる。言った通り、お茶を淹れるために。
やかんを持って、まずは水を入れてこようと、水桶のところへ向かったのだけど。
「割合、本気なんだけどね」
ぼそりと耳に届いてしまったその言葉。
一体どういう意味だったのか。
私は聞こえたものの、もう考える余裕もなく、ただひしゃくで水を汲み、その手が震えていたものだから、ばしゃっと自分の草履の素足にぶっかけてしまい、「ひゃぁ!」なんて情けない声を上げるしかなかったのである。
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