異世界だって朝は来る

「美味しいです」

 一時間ほどあと。

 私は何故か、お膳というものを出されて朝ご飯など食べさせてもらっていた。

 彼が起きて、どきどきしつつもほっとしたのだろう。すぐにぐぅっとお腹が鳴った。

 思えば大学の屋上から落っこちたのは夕ご飯前だった気がする。朝になればお腹も減る。

 お腹を鳴らして顔を赤くした私を「呑気なもんだ」と苦笑してきたものの、彼はぱっぱっと支度をして「ほい」と朝ご飯まで振る舞ってくれたのだった。

 とはいえ白いご飯とお味噌汁、お漬物くらいだったけれど、今の私にとっては極上のご飯であった。

「そりゃ良かった」

 わしわしと白ご飯を掻き込みながら、彼は満足げに笑みを浮かべた。その笑みは私とどきどきさせるやら、ほっとさせるやら。

「そうだ、嬢ちゃんよ。あんた、名前はなんていうんだ」

 ご飯をお代わりして戻ってきて、座り直した彼に聞かれて私ははっとした。

 そういえば名前すら名乗っていない。無礼だっただろうと反省した。

「あ、え、えっと」

 思い出そうとして、ちゃんと頭にあることにほっとした。

「戌井 夜留子といいます」

 遅すぎることだが名乗って、小さく頭を下げる。彼は何故かちょっと目を丸くした。

 いぬい、と口の中で呟いたような動きをしたけれど、出てきたのは多分違う言葉と台詞であった。

「字(あざな)があんのか。姫様かね」

「え……?」

 驚かれたけれど、私はすぐにその意味がわからなかった。

 どうしてお姫様、などと。

 その理由は、彼が名乗ってくれた名前で理解できた。

「俺は辰之助(たつのすけ)。あんたと違って名前しかねぇけどな」


 辰之助。


 格好良い名前だ、と普通に思ってしまって、そのあと付け加えられたことに先程の反応の理由を知る。

 字(あざな)。

 昔の言葉で名字のことだ。

 そういえば昔はいい家、貴族だとか武家だとか、そういう家の人間しか名字というものを持たなかったらしい。私は中学や高校の授業でのことを思い出した。

「あ……えっと、私のいたところは、名字……じゃなくて、あざながあるのが、みんな普通で」

 説明すると辰之助は感心したようだった。二杯目のご飯をさっきよりゆっくり食べながら感慨深げに言った。

「へぇ。変わってんな。あ、でも漢字は使うんだな? どういう字だ。俺は『辰の刻』の辰に、『よし』の之、助は『たすける』だ」

 最後の『たすける』は私の心に響いてきた。

 私は本当にこのひとに助けられてしまったのだ。そうでなければ行き倒れたまま途方に暮れて、あの暴漢に斬り殺されていただろう。

 それが一応、家の中にいられてご飯まで出してもらっている。恩などありすぎる。

 そう思いつつも私は「こういう字で」と説明する。ちゃんと意味が通じてくれた。

 どうもここは、私にとっての『昔の日本』のような世界のようだ、と名前や漢字から私は感じた。

 朝食を終えて外に出ることになって、私はそれがほぼ当たりであろうことを、はっきり理解することになる。



「おー、似合うじゃん。あの舶来みたいな服も悪かなかったが、やっぱ見慣れた服のほうが目に落ち着くな」

 更に服まで借りてしまった。

 服、というか和服。着物。

 女性物の一重の着物であった。

 私は着物など着たことがほとんどないので「これを着てろ」と渡されて、少し慌ててしまったのだが、一応何回か着たことはあるし、今年の夏にも浴衣を三、四回着ていた。

 そのときのことを思いだして、おぼつかないながら着ていって、緩みだのは絶対にあるだろうと感じられつつも、一応格好はついた、と思える出来になった。

 袖を持ち上げて自分の様子を見下ろす。

 生成り色に小花の散ったシンプルな着物だ。

 帯はえんじ色。

 昨日、辰之助が着ていた服のような、綺麗な赤であった。

 そんな場合ではないのに、私はちょっと嬉しくなってしまった。

 着物自体が、現代に生きる私にとっては『お洒落』の域なのだから。

「ありがとうございます。……えっと、辰、さん」

 ちょっとためらいつつもお礼を言う。

 はじめは「辰之助さん」と呼んだのだけど「そんなかしこまらなくていい」と手を振られてしまったのだ。

「ここじゃみんな、辰とか辰さんとか呼ぶからよ、それでいい」とのことで。

 お言葉に甘えて、カジュアルだがそう呼ばせてもらうことにしたのだ。

「いいや。あんま目立たれると俺が困るからな、拾った以上」

「そう、ですね。すみません」

 確かに。

 自分が奇異の目で見られるのはともかく、辰之助にも迷惑がかかってしまう。

 それは困るので、このどこからか手に入れてきてくれた着物を借りて良かったのだろうと思えた。

「じゃ、行くか」

「えっと、どちらへでしょう」

 辰之助も支度を終えたらしい。昨日のものと同じ羽織に、着物だけは紺色のものにして、髪も綺麗に整えて結い直して。

 そのあとの『支度』に私はどきっとした。

 腰にすらりと長い刀が挿されたものだから。


 刀。


 鞘にちゃんと入っているものの、朝の光の中ではっきり見えてしまうと、昨夜よりずっと物騒に見えた。

 そういえば昨日、辰之助は出掛けたとき既に刀を持っていたということになる。

 おさむらいさんかなにか、なのだろうか?

 違う意味でどきどきしてしまった。あんな大きな刃物を近くにしたことはないので少し臆してしまったのだ。

「俺の仲間のとこだ。ここに置いといても仕方ねぇ。これからどうするにしろ」

「そう……ですね。では、お言葉に甘えまして」

 私はぺこりとお辞儀をして、そして辰之助に続いて外へ出て……そわそわ歩くことになった。


 町のど真ん中ではないので人通りはきっと、多いというほどではないだろう。

 でも私にとっては映画村にひとが行き来しているような感覚であった。

 男性は辰之助のような格好か、それに袴の姿。

 女性も同じような感じ。

 日本の歴史でいうところの江戸時代、のように見えた。

 ただ、多分違うのだろうな、と私は慣れない草履でそろそろ歩きながら感じた。

 男性はまげを結っていないし、女性も日本髪ではない。

 江戸時代の日本であればそういう髪型であろうに。

 日本に似た別の世界。その線が濃そうであった。

 でもおかげでセミロングの茶色い髪を背中に流したスタイルでも違和感がないようだ。ちらっと軽く見られるくらいで済んでいる。

「辰にいちゃん! おはよ! 早いじゃん!」

「おう、子一(ねいち)か。今日はちっと用があってな」

 そこへたたっと駆けてきた子供がいた。

 男の子。短めに着物を着て、やはり時代劇か教科書で見るような姿であった。

 ねいち、と辰之助が呼んだその子は十歳前くらいだろうか。くりっとした目がかわいらしい子であった。

「あれ、にいちゃん、朝から逢引き? ……いてっ」

 その子がませた言葉を言ったからか、こつんと辰之助が拳を落とした。

「どこでそんな言葉、覚えてきやがった。昨日知り合ったんだけどよ、行き先がないっていうからとりあえず道場へ行こうと思ってな」

「ふーん……」

 辰之助の説明に、その子は私をじーっと見てきた。

 私はそわそわしてしまう。


 なにかおかしいと思われないだろうか、この世界の人間ではないとバレないだろうか……。


 そわそわしつつも、突っ立っているわけにはいかない。私は努力して笑みを浮かべた。

「えっと、夜留子といいます。よろしくお願いします」

 名字は名乗らなかった。ここでは多分、無いのが普通なのだろうから。

 言っても多分、辰之助のような反応が返ってくるのだろう。それでは誤解が濃くなる。

 そんなわけで名前だけ。

 私の自己紹介は間違っていなかったようで、男の子はにこっと明るく笑ってくれた。

「よろしく! おれは子一郎(ねいちろう)! 辰にいちゃんの一番弟子だ!」


 弟子?

 さっきの刀……剣道かなにかだろうか?


 私は辰之助の腰の刀をちらっと見てしまったのだけど、今度、辰之助はちょっとくすぐったい、という様子で子一郎をもう一度、小突いた。

「弟子は取らねぇっつってんだろ」

「ええー」

 どうも弟分といったところのようだ。

 私はそう推測した。

 多分そう間違っていないようで、子一郎が「じゃ、お客さんっておれが先に言ってきてやる!」と駆けて行ってくれたのだった。

「そりゃどーも。転ぶなよ」

 辰之助はそれを軽く受け、私を振り返った。

「すまんな。弟みたいなもんだ」

「いいえ。えっと……」

 そう言われたけれど『みたいなもん』ということは……。

 どう言ったらいいのかわからず言い淀んでしまったけれど、辰之助が先に言ってくれた。

 別になにも気にしていないどころか、なにもおかしなことではない、という口調で。

「血は繋がってねぇけどな」

 なるほど。

 ここではそういうものなのかもしれない。

 血縁でなくても、近しい関係だったら面倒を見るとか。

 そういうところも昔の日本っぽいんだけどなぁ、と首をひねりつつ、私は再び歩き出した辰之助について、子一郎の走っていった方向へ向かっていった。


 だが直後、目を見開くことになる。


 ボンッ!

 ガシャーン!!!


 穏やかでない音が響いてきた。

 しかも向かっている方向からである。

 向かっている方向には大きめの平屋の建物がある。

 民家ではなさそうだ。剣道とか柔道とかの道場のように見えた。

 音はそこから出たようで、おまけにもくもくと黒い煙まで戸口から漂いはじめている。

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