辰の家にて
「お……お邪魔します……」
私はおそるおそる引き戸の玄関をくぐった。
中は土間だった。
私はわぁ、と内心呟いてしまう。
平成生まれ、令和育ちの私は土間のある家なんて住んだことがあるものか。おばあちゃんの家だって現代風の家だ。
「まぁ上がれよ。一人もんだから気にしなくていい」
「は、はい」
どきどきしつつ、私は土間の奥、一段上がったところにある居室へ靴を脱いで上がらせてもらった。
畳敷きであった。ストッキングの足にさらさらとした、いぐさの感触が当たる。
畳の部屋などもう久しく上がっていない。慣れない感触であった。
「やれやれ。遊びに行くつもりが、妙なもんを拾ってきちまった」
彼は私の前に湯呑みを置いて、座布団を出してくれて、自分はその前にどかっとあぐらをかいた。私はお礼を言って、座布団の上にちんまり正座をする。
湯吞みの中には水が入っていた。とりあえず飲んで落ち着け、ということのようだけど、本当に水だろうか、なんて疑ってしまって、ひとまず後回しにすることにした。
「で? あんたはなにもんなんだ。夜にあんなところで座り込んでて? おまけに舶来品みたいな服と靴ときた。まともなわけはないがな」
あぐらをかいた膝の上に、さらに頬杖をついたお行儀の悪い格好で聞かれる。
「えーと……気付いたらここに、いました……」
本当のことを言ったのだけど彼は盛大に顔をしかめた。
ですよねー、と私は内心呟いてしまう。
だって私のほうが教えて欲しいくらいなのだ。
「外国から来たんじゃないなら、最近、宮に出入りしてるらしい陰陽師の妙な術とかね」
「宮……?」
私は首をかしげた。
宮とは。
彼はさらりと返事をした。
「このへんの領主みたいなもんだよ。治めてる……ってのとはちっと違うけど、ま、一番権威があって、役に立ってる家って感じだ」
なるほど、このへんで一番えらいひとやおうちってことね。
私はそう解釈した。それより問題はそのあとであった。
陰陽師。それなら聞いたことくらいはある。
「陰陽師……悪霊を祓うっていう……?」
「そうだよ。なんだ、そんくらいは知ってんだな」
彼はちょっと驚いたようだった。身を乗り出してくるので私は気持ち、うしろに引いてしまう。
「最近、西から来た一団がいるからよ、そこと関わりがあるのかもな。たとえば」
彼はにやっと笑った。
私が嫌な予感を覚えた直後。その通りのことを言われた。
「記憶もなくした、都に出現した妖魔とか」
「そ、そんなものではないです! ……た、多分」
そんな誤解をされたことに、仰天した。
妖魔というのはわからないが、口ぶりからするに悪い存在に決まっている。いくらこの場所にそぐわない存在だとしても、それはあんまりである。
いや、そんなことはないのか?
私は一体なんなんだろう。
そこからわからなくなりそうになってしまった。
「冗談だよ。あんた、変な格好はしてるが、かわいいおなごだしな」
彼は私をまじまじと見て、にやっと笑った。
しかしその笑みからは別の嫌な予感が生まれた。すなわち……。
「なぁ、俺がこんな時間にどこ行くつもりだったと思うよ?」
彼は楽しそうな口調で言った。私にわかるはずもないというのに。
わかりません、と言おうとしたと同時。
彼がぐいっと身を寄せてきた。私は目を丸くしてしまう。
茶色の丸い瞳はからかうような色と、あとはあまりこんな視線は向けられたくないのだけど……どこか獣のような色があった。
私は一瞬で悟ってしまった。
「女のとこ。行く途中だったんだよ」
ぼそりと言われたことに、私の心臓は冷たくどきりと跳ねた。
女……単に『女性』という性別なはずがない。
つまり恋人とか……少なくとも『そういう』関係の相手に決まって……。
かっと頭の中が熱くなった。こんなあからさまな。
「そ、それは……すみ、ません……」
私は見つめられるのからなんとか逃れようと、視線を逸らしながら言ったのだけど、不意に頬へなにかが触れた。
あたたかくてごつごつしている。
頬に触れられた、と実感して、恥ずかしさより先に恐ろしさが襲ってきた。
やはり危険だったのだ。
あのままあそこにいるわけにはいかなかったとはいえ、男のひと、それも若いひとにほいほいついてきて一人の家にあがるなど。
だがもう遅かった。
彼はぐっと手に力を入れ、私に無理やりこちらを見るようにさせた。
茶色のぎらついた目が私を見つめ、あたたかな吐息がかかる。
ばくばくと恐ろしさと緊張に高鳴ってきた心臓。
どうしよう、逃げないと、でもこの場所では右も左もわからない……。
「今夜の女がふいになったんだから、あんたに代わりになってもらうかな」
彼は楽しそうにすら言った。どうも私の反応を楽しんでいるようだった。
どうしよう、逃げないと。
もう一度、同じことを思ってしまったけれど、やはり逃げられない。
体も凍り付いたようになってしまって、彼の手が頬を撫でてきた。
「大丈夫さ、俺ぁ優しいからな。あっちのほうも上手いって褒められるし」
あっちって、どっち。
褒められるって、誰に。
わかるのにわかりたくないことばかり言われて、私が恐ろしさの頂点に達し、彼が笑みを浮かべて、すっと顔を近付けたとき。
ずきんっ。
腰の下が強く痛んだ。
「いっつ……!?」
どさっ。
私はその場に倒れ込んでいた。
結果的には逃れた形であるが、こんなやり方とは想像されなかったに決まっている。
彼は取り残されて手だけ宙に浮いたまま、ぽかんとした。
しかし私はそれどころではない。
ずきずきと足が痛む。
いや、これはずきずきというより、じんじん、だ。
じーんと足に感覚がなくなっていく。
「……は」
彼は呆然とした様子で、いきなり倒れ込んだ私を見下ろしてきた。
私はただ畳に懐くしかない。
だって……。
「あ……足が……痺れ、ました……」
そう、畳や正座に慣れていない私にはこの座り方は酷だった。まだ五分もしていないというのに、足はびりびりと感覚を失っていた。
時間が経てば収まるとはいえ、普通に痛い。
私のそれに、彼は呆気にとられたようだった。
しかし恥ずかしいとか情けないとか、あるいは助かったとか思う余裕などない。
「いった……い……」
びりびりする足の痛みに呻いている私をしばらく見ていたけれど、やがて、はぁー……と大きく長いため息が降ってきた。
「色気がねぇ……」
呆れたような言葉。心底呆れた、と思われたのは確実だった。
「興が削がれたわ。もう今夜はいいや、あんたも大人しくしとけ」
やれやれ、と言った様子で彼は手をひらっと振り、立ち上がった。どかどかと奥へ行ってしまう。
どうやら寝るらしい。薄い布団にごろんと背中を向けて転がった。
私はまだ足の痺れにうめきつつも感謝するしかなかった。
とりあえず今夜は助かった、らしい。
色気がないと言われたのは屈辱であったが、なにもわからぬうちに、ぺろりと食べられてしまうのは、どうやら回避されたのだから。
大人しくしとけと言われたものの、布団があるわけでもなく手元にはスマホもなにもない。落っこちるときになくしてしまったのかもしれない。
いや、この場所でスマホがあっても繋がらない気しかしないけれど。
手元にあったのはジャケットのポケットに入っていた僅かなもの。
今が夏などでなくて良かった、と思う。夏ならワンピース一枚の姿、なんて可能性もあったから。こんな場所でそれはだいぶ困ってしまう。
ここの季節は、というか季節があるかもわからないけれど、ひとまずブラウスにスカート、ジャケットというごく普通の若い女の子の秋スタイルで寒くも暑くもないから、似た気候か季節なのだろう。
それはともかく、入っていたのはハンカチとティッシュ、それから何故かソーイングセット。
なんでソーイングセットが、と考えて思い当たった。
実習で使うエプロンがほつれていたから、応急処置をしようとジャケットに入れっぱなしになっていたのだ。
しかしソーイングセットって、と思う。
こんなことになるならもっと役に立つ……食べ物とか、ライターとか、カッターとか?
いや、それはサバイバルか……。
まぁ、役に立つなにしらを入れておけば良かった。
そう思ったってもう遅いのだけど。
とりあえず邪魔にはならないだろう、と思ってごそごそしているうちに、元々夜中だったのだ、日がのぼってきた。障子の外が明るくなっていく。
一体、これからどうなるというのか。
違う意味でどきどきしつつ、私はそこで座っているしかなかったのだけど、そのうち昨夜の彼がごそりと動いた。むくりと起き上がってこちらを見る。
赤い髪はぼさぼさになっていた。寝ている間に寝がえりでも打ったらしい。
その様子は無防備で、ちょっとどきっとしてしまった。昨夜、襲われかけたというのに呑気なことだが。
だって彼はだいぶ見た目がいい。おまけに男のひとの寝起きなど私は父くらいしか知らないのであった。
父に色気を感じるはずもなし、そのときとはまったく勝手が違う。どきどきしてしまって視線をついそらしてしまった。
「あー……、夢じゃなかったんか」
彼は綺麗な見た目とは裏腹、ぐしゃっと髪を掻き乱してちょっと憂鬱そうに言った。
それがこの奇妙な世界……もう認めるしかない、異世界だ、ここは。
ここでの生活のスタートであった。
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