夜を行く

東京の夏特有のぬるい湿気が肌にまとわりつく熱帯夜。

 

夜が足元から這い上がってくるのを感じていた。人気ひとけのない西新宿の路地を私は缶を蹴りながら闇を睨んでいた。......尤も闇といっても十分に先を見通せるのだけれど。


 電信柱に目をやる。黒いシルエットが後ずさった。


「気づいてんだけど」


 自分でも想像ができなかった低い声が出てはびくりと身体を震わせた。電信柱からピキリ、と音がしてぬるぬると粘液を纏った6本指が飛び出す。世にも気持ちが悪い。

 今までたくさんの霊や怨念に接してきたがここまで気持ち悪いのは初めてだ、と思う。

 これでも乙女だ。気持ちの悪いものは始末するに限る。


『針地獄』


 眉のあたりに力を込め黒いシルエットを睨む。ふわりと身体から生力が抜け落ちるのを感じ、コンクリートの塀にもたれかかる。

 あの気持ちの悪いものの姿は見当たらなかった。無事祓えたのか。

あれも《影》と呼ばれる化け物のひとつだろう。《影》は魂を失ってさまようむくろの1つだ。

数ヶ月前から確認されていて街に出没しては被害を出していた。一般人が襲われると遺体は残らない。吸収されてしまうのだ。


 この街ではまだ確認されていなかったはずだったが、ついに来てしまったのだ。

 小走りで路地裏の我が家へ向かう。家といっても粗末なもので6畳もない築50年以上のアパルトマンに私は住んでいた。

 錆びたドアノブを引き用心深く扉を閉める。幸い空き巣も亡霊も入ってきていないようだった。ほっとして電気をつける。裸電球が殺風景な部屋を照らし出した。

 革の剥がれたソファとアンティーク調のテーブル。安物のカーペットはもう擦り切れていた。

 息を吐いてソファへ身を横たえ、そのまま着ていたパーカーを脱いでブラトップ一枚になった。このまま寝ても良かったのだが酷く腹が減っていた。テーブルの上の携帯栄養食を手繰り寄せ封を切って食んだ。


 元々食には興味が無かったしキッチンも使ったことがない。お湯を沸かすことが面倒臭いからカップ麺を作ることもしない。

 もっさりとした粉を唾液で飲み下してからラジオをつける。砂嵐。雑音が耳に心地よい。

 今日も生きていた。生き残れた。その事実が胸にじわりと広がっては身体にしみた。生きてきて19年。そのことが不思議でたまらなかった。


 私の仕事は《睨み》だ。人から依頼を受けては対象を睨むことで呪うことができる。呪いといっても殺すことまではしない。殺せば自分の身体に反動が返ってくる。《睨み》で人を殺すことは死を意味するのだ。


 だから呪いと言っても重症を負わさせることぐらいが限度だ。少しでも《睨み》の調整を間違えたら死ぬ。それに私の《睨み》に勘付き私を殺そうとする輩もいる。

 命などいつ失ってもおかしくなかった。それでも私にできるのはこれしかない。学校もろくに行ったことがないし家族などもういない。

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