実体が無いんじゃ。

「うふふ、ね、面白そうでしょ、うふふ、うふふふふふふ」


 口を押さえて、腹を抱えて、不気味に笑い続けているこの女が神であるとは信じ難かったし、そもそも私が既に死んでいるとの発言も信じ難かった。


 就寝中に変態に連れ去られて軟禁されたという方が余程信じられた。


 私はさりげなく周囲を見渡し出口を探したが、発見できず、或いは巧妙に隠されているのかも知れなかった。


 瞼を閉じて、二度深呼吸した。


 ゆっくりと目を開き、剛力流の基本の構え(右足を前、左足を後ろの半身、拳はほんの軽く握り、腕は肩の高さ)を作り、女を見据えた(焦点は合わせず、ぼかす)。


 この状態の私は、どんな些細な挙動も見逃さない。


「おい、女。この部屋から出せ。さもなくばボコす」


 女に緊張感はまるでなかった。


 二人しかいない静かな部屋に、女の笑いだけが虚ろに響く。


「ああ楽しい、可笑しい、ぞくぞくしちゃう」


 などと呟き、笑い涙を拭う素振りさえ見せてから、珍奇な昆虫でも観察するみたいに、興味深そうに私を眺めた。


 それから、一層不気味ににやりとして(無論錯覚だが、口が耳まで裂けたようにさえ見えた)、

 

「あぁ、そう、そうなのよね。りつほちゃんは空手の達人なのよね、お父さんに教わったのよね、でも大会とかには一度もでたことなくて、ひたすらに鍛練に励む流派なのよね。いいわぁ、そういう勝ち気で芯のある子」


「剛力流を知る人間はそれほど多くない筈じゃけど……もしやお前、私のストーカーか?」


 私は女だが、そこそこ女にモテる。


 私に惚れた異常者が就寝中の私を誘拐し軟禁する……いかにもありそうな筋書ではないか。


「ストーカーではないわね。神だから」


「……まぁ、この際お前の正体はどうでもええ。最後の警告じゃ、この部屋から出せ、さもなくばボコす」


「あぁ、良いわぁ……ほんの暇潰しのつもりだったけれど、貴女を選んで正解だった……」


「は?」


「神をも脅す空手少女が、生死をかけて異世界で奮闘する……あぁ、なんて素敵なんでしょう! 素敵! 素敵! すて」


 隙だらけだった。


 私は脱力した右腕を素早く女の顔面に突き出した。


 この突きだけでも充分仕留められただろうが、念には念を入れて、この右は囮にした。


 拳が顔に届く寸前で右腕を引き、その反動で突いた左の拳が、女の鳩尾にめり込んだ……筈だった。


 その筈だったのに、鋭く突き出された私の左腕は、女の腹をすり抜けて、空しく虚空を掻いていた……。


 一瞬で理解した。


 女には、実体が無かった。


 私は思わず飛び退き、女と距離を取った。


「乱暴なりつほちゃんも素敵だけれど、少しだけ、私の説明を聞いてくれるかしら?」


 女は余裕綽々、微笑んでいて、私は、女は神であるか、少なくとも面妖な存在であること、そして、私は本当に死んだのだということを、認め始めていた。


 女は、当初の取り澄ました態度に戻ってから、


「りつほさん、これは貴女にとっても悪い話ではないのですよ」


 と、まるでまともな女神みたいに告げた。

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