第3話 あなたの名前は何ですか?

 次の木曜日、名前も知らない彼がいつものようにやってきた。

 彼は、なぜかそわそわしていたが、いつものルーティンだけは早かった。レジでの会計の時、今度はミス・シンシアが彼に質問した。いつもの彼と一つだけ決定的に違っていたことがあったのだ。


「なぜ、いつも古パン二個だけなのに、今日はクロワッサンも買ってくれるのですか?」彼の前では、やっぱりどうしてもミス・シンシアは静かな感じになってしまう。


「ここのクロワッサンは、前から食べてみたかったんです。それに、以前のことのお詫びにと思って」


名前も知らない彼は、もごもごと言葉をつないだ。


「以前のこと?」


「すみません」彼はお辞儀をすると、急ぎ足で店を出ていった。


 ミス・シンシアは決意した。次に訪れる木曜日までに、自分の中で結論を出そうと。このままでは、いつまでたっても前進も後退もしない。ただ突っ立っているだけだ。


 彼女は、最後のエリオットの助言を心の中で何度も反芻した。


 五日目の夕方、ミス・シンシアの達した結論は「彼に私はふさわしくない」だった。それは、思春期の女の子が、今まで意識したこともなかったクラスの人気者に告白された時の振り文句のような、生ぬるいものではなかった。それは、勇気ある後退だった。自分ではなく、彼のことを深く想えば想うほど、自分ではよくないと思った。そこには、エリオットに咎められなければ、自分の善意で行うはずだった、あのバター入りの古パンで彼の仕事をめちゃくちゃにするところだったという苦い記憶があった。私が彼と一緒になったとしても、彼を不幸にしてしまうだろう。エリオットの言葉をよく考えぬいて出した彼女の結論は、その言葉のどこにもない「彼の幸福を考える」だった。

 エリオットはがっかりするだろうな、とミス・シンシアは思った。彼は私のこの恋路を最も応援してくれた人だったからだ。しかし、今ほどエリオットに会いたいと思ったことはなかった。


 自ら恋をあきらめたミス・シンシアにとって、その恋の象徴である水玉模様のエプロンはもう必要がなかった。逆に手元にあると、今でも彼に対する気持ちが湧き上がってくる。もうきっぱり別れて、明日を生きよう、その彼女の決意の出発点としてやっておかなくてはならないことがあった。


 午後も暗くなって、店にもお客さんは一人もいない。もうそろそろ店じまいだと思ったミス・シンシアは、店を閉める前に、カウンターの裏にあるパン製造室、その中にある、大きなごみ袋の元へ向かった。水玉模様のエプロンを捨てに行ったのだ。


 彼女は、エプロンを脱ぎ、丁寧にたたみ、お別れのキスを胸元の部分にして、今までありがとうと言った。


 その時、いきなり玄関の鳩のベルがリン!リン!リン!といつもより勢い良くなりだした。


 ミス・シンシアはびっくりして、こんな時間にお客さん?と思いつつも、カウンターに戻った。このパン屋の主人は彼女であり、いくら人との会話が苦手だといっても、彼女には接客という大事な役目がある。この時、近くに以前身に着けていた茶色で無地のエプロンがなかったため、せっかくきれいにたたんだ水玉模様のエプロンをもう一度着るしかなかった。いったいどんな人かと、少しいらいらしながら玄関を見ると、息をぜーぜーと切らした、名前も知らない彼が立っていた。


 ミス・シンシアは心臓が口から飛び出そうなくらいに驚いた。今日は木曜日でも午前八時でもないじゃない!それに、いつもの彼とは様子が違っていた。彼は、古パンには目もくれず、いつものルーティンよりも早く、カウンターのほうへとやってきた。


「すみません、こんな時間に。どうしても、あなたに伝えたいことがあって。今週の木曜日の夜、私とディナーに行きませんか?・・・あぁ!申し遅れました、私の名前はロレンス・バーガーと言います。あなたの名前は何ですか?」


 

 数年後、ミス・シンシアはロレンスと結婚した。今では、ロンドンの中心街、彼の設計した新しいパン屋で一緒に働いている。ロレンスはパンを焼くのはどうしようもなくヘタクソだったけれども、ミス・シンシアはそんな彼との日常が何よりの幸せだった。

 

 彼女のお気に入りのあの鳩模型のベルはもちろん引き継がれた。あのリーンという音色は、今でもお客さんの到来と、新しい出会いの予感を彼女に感じさせる。


 ミス・シンシアは、「やっぱり自分にはこれが合うわ」と言い、茶色で無地のエプロンをいつも身に着けていたが、あの水玉模様のエプロンは大事に棚にしまっていた。そして、木曜日の気が向いた時にだけ着るようにしていた。

 

 また彼女は、依然として無口だったけれども、昔よりも多くの人と会話を楽しむことができた。しかし相変わらず、ロマンスに思いをはせることが、彼女の一番の趣味だった。


 ある日ミス・シンシアは、急に昔を思い出し、ロレンスに質問をした。


「ねえ、ロレンスさん、どうしてあの時、私をディナーに誘ってくれたの?」


「僕はね、シンシア、とても臆病でね、昔から自分の思っていることを他人に伝えるのが大嫌いになるくらい苦手だったんだ。けど、そんな僕にも気を許せる人がいてね、卵頭の老人だったんだけど、よく彼に恋愛の相談をしてアドバイスをもらっていたんだ、あぁ!もちろんそれは君のことだよ、シンシア。彼と最後に合った時、彼は僕に『私は恋の傍観者です。あなたは何者ですか?』って聞いてきたんだ。それで、君に気持ちを伝えられるのは、当たり前なんだけど、僕しかいないということに気が付かされたんだ」




「恋の傍観者」完

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恋の傍観者 センチャ @keigo0202

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