第2話 ミス・シンシアの早とちり

 次の木曜日が来る間、エリオットは何度か店を訪れたが、名前も知らない彼の話はしなかった。彼との話の九割くらいは、二人が大好きな戯曲や、小説の話だった。

 木曜日の午前八時、リーンといういつもの音とともに、名前も知らない彼が店に入ってきた。彼はすぐに古パン二個をカウンターに運んだ。ミス・シンシアと彼の唯一の会話の機会が訪れた。

 最初に口火を切ったのは彼だったが、ミス・シンシアが驚いたことに、彼は意外なことを訊いてきた。


「おや、立派な絵がありますね」


 それは、ヴェニスの絵だった。それほど大きくはない絵だったが、その中には、川のすれすれの位置に立ち並ぶレンガ造りの家、一人のお客を乗せて運ぶゴンドラ乗りの男、そしてその背後には、古き良き古代の宮殿が描かれていた。そこには、空も地上も澄んでいる、多くの人が思い浮かべるヴェニスの風景があった。

 それは、彼女が二日前に、たまたまカウンターの後ろの棚の上に立てかけていたものだった。だが彼女が驚いたことは、絵の中身に関することではなく別のことだった。

 彼は、今までミス・シンシアに関することを訊いてくることはなかった。いつも、ニュース番組のキャスターが言うような当たり障りのない話しかしなかった。そんな彼が、彼女のパン屋に飾ってある絵、紛れもなく彼女に関することを質問してきたのだ。


「ええ」


喜びの後に後悔の念が彼女に押し寄せた。なぜ話が進むように何か質問しないのか!頑張りなさい、シンシア!


「いい絵だと思いますか?」


古パンを厚紙に包む手は少し震えていた。


「宮殿はあまりよく描けていませんね。遠近法が間違っています。どなたの絵ですか?」


「死んだ、母の絵です」


 名前も知らない彼は、バツが悪そうな顔で「そうですか、では」とお辞儀をし、古パン二個を片手にそそくさと店を出ていった。


 それまでのミス・シンシアなら、この時また自己嫌悪に陥っていただろう。しかし、彼女はエリオットからのアドバイスを忠実に実行していた。

 彼はいつも厚手の手袋と、茶色のぶかぶかのベレー帽をかぶり、よく鉛筆特有のあの何とも言えない木の香りを漂わせていた、ということにミス・シンシアは気が付いた。そして、先ほどの質問、そういった諸々の要素を総合して考えると・・・彼は画家ではないのか!

 ミス・シンシアにとってこの時の喜びは計り知れない。愛する男性のことを一つでも知ることができたのだ。しかし、彼女の中では彼はもう画家としか考えられなかった。

 そして、さらにこの時、ミス・シンシアの脳裏にものすごい妙案が浮かんだ。私って天才かしら!と彼女は思った。観察して得たことを実行に移す、まさにエリオットのアドバイスどおりだった。


 一日後、聴きなれても飽きることがないリーンといういつもの音がして、扉に目を向けると、エリオットがやってきた。何という絶好のタイミングだろうか、とミス・シンシアは思った。彼女は早速、自身の妙案について聞いてもらいたくて、エリオットが今日の日替わりパンであるクロワッサンをどれにしようかと選び終わるのを、うずうずしながら待っていた。だが、カウンターに来た彼はいつもと少し違い、ちょっと疲れているようだった。


「エリオットさん、ありがとうございます。あなたのおかげです。私、わかりました。彼は画家なのです。観察したらわかりました。そして、彼が私のことを少しでも考えてくれるような方法も考えました。いいですか、彼はいつも古パンしか買いません。たぶん彼は、画家としてはまだ成功していない貧乏な人だと思うのです。なので、その古パンを切ってさりげなくバターを塗りたくってあげて、いつものように包み、渡す。するとどうです!彼は、私の善意に気が付いてくれる。そうなれば、次に会ったときに必ず話題になります。私のことを訊いてくれます!」


ミス・シンシアは、エリオットのことなどお構いなしのごとくまくし立てた。


 だが、エリオットの反応はミス・シンシアの想像していたものではなかった。彼は、いつもの卵型の頭を真っ赤にし、その目には明らかな憤慨の色が見えた。


「なぜあなた方はそうやって、自分の考えに固執するのですか!」


それは、いつものエリオットとは明らかに違う口調だった。彼は、はっとして、二度、深呼吸した。


「許してください、最近少し疲れていたのです。いいですか、あなたは名前も知らない彼をよく観察し、彼が画家であるという結論が出ました。このあなたの観察力は素晴らしいですよ、賞賛に値します。しかし、観察して出た結論というのは、信憑性がまるでないのですよ。必ず、正しいかどうかを見極めなくてはいけません。あなたが、犯罪捜査を依頼された探偵だとして、推理だけで犯人をお縄にしますか?その推理に穴があるかどうか考え、吟味するでしょう、それを繰り返して、見せ場はその後です。しかし、今回あなたは、一つの推論に固執しすぎ、それを真実だと思い込んだ。彼がいつ自分は画家だと言ったのですか。そういう正確な情報があなたの望んだものではないのですか」


 ミス・シンシアは、どう言っていいのかわからなかったが、それも仕方がなかった。天界から下界に突き落とされた堕天使ルシファーのごとく、高揚の絶頂から、絶望のどん底に気持ちが急降下したのだから。


「いいですかミス・シンシア、本当はいけないことなのですが、一つだけ事実をお話ししてあげましょう」


エリオットはいつもの口調に戻っていた。


「彼は画家ではありませんよ、製図家です」


エリオットはきっぱりと言った。


「うそ!なぜですか?」


「簡単ですよ、ミス・シンシア。以前、私は彼を偶然見つけたのですよ。彼は取り壊させる予定の市役所の前にいました。そして、こっそり後をつけた。彼は、公共建築物の製図事務所入っていきました。あなたの言った彼の特徴は正解でしたね、あんな弁当箱のような顔をした人はなかなかいない。そして、体からにじみ出る鉛筆の香り。二つの事実が同じ推論を導き出すとき、それは一応事実としていいでしょう。そしてもう一つ。画家も製図家も、消しゴムの代わりに、古パンを使う人がいるのです。もし、あなたの妙案を実行に移していたらどうなっていたでしょうか」


「それは、いつのことですか?」


「四日ほど前です」


「なぜ、そのことを、以前会った時に私に教えてくださらなかったのですか!」


今度は、ミス・シンシアが包んだクロワッサンを握りつぶす勢いで怒り出した。その怒りも当然だった。彼が製図家だと分かっていれば、こんな思いはせずに済んだのに!(彼女は、画家は絵具しか使わないと思っていた)


「ミス・シンシア、私は、あなたの恋のキューピットなどではありませんよ。こんな六十余の小男が、クピートー(ローマ神話の愛の神)の代わりなど務まるはずがありません。私ができるのは、あなたの背中を後押しすることではなく、あなたの背中に手を置いて、倒れてしまいそうになった時にそっと支えてあげることだけです。その後どうするかはあなたの意志なのです。私も恋の傍観者なのですよ」


彼のこの言葉には、本当の優しみが含まれていた。


「でも、あなたは、ありがたいほど私に助言をしてくれます」


「ふふ、私は、傍観者である以前に、ロマンスを愛する者です。あなたと同じでね。そして、バッドエンドをこよなく憎むものです。こと恋愛に関しては」


「では、私は、どうすればいいんでしょうか?」


「ミス・シンシア、考えなさい。あなたは彼とどうなりたいか、そのためには何をするべきなのか、そして、あなたの幸福とは何なのか、これだけです」


彼はどこか寂しそうに言った。


 彼は帰り際に、思い立ったように振り返った。


「そうそう、言い忘れていましたよ。実は私のロンドンでの仕事が終わったのです。今日はその報告と、お別れも言いに来ました。私は、故郷のベルギーで隠居するつもりです。もうここへは来られないかもしれません。しかし、良い毎日でしたよ。おいしいパンを、どうもありがとう。では、ミス・シンシア、さようなら」

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