恋の傍観者

センチャ

第1話 ある女性の恋愛相談

 ミス・シンシア・ミーチャムは、もともとウェセックス州にあった大きな屋敷でメイドとして働いていたが、そこの主人の意向でメイドをやめて、昔からやりたかったパン屋をロンドンの小さな通りに開いていた。パン屋の入り口の扉には、鳩の模型を上につけたベルがかかっていて、そのリーンというゆったりとした音色が彼女のお気に入りだった。


 ミス・シンシアは現在三十歳で、結婚はしていない。彼女は多くの人に静かだという印象を受けさせ、実際口数が多いわけではないが、心の中ではロマンスとかそういったものに対する興味を常にいっぱいにした女性だった。それでいて、彼女は自分の本性を外に出さない性格であったのは、そんな自分に自信がなく、他人とかかわるのが心底苦手であったからであった。学生時代、彼女は教室の自席で常に本ばかり読んでいるような子で、彼女に興味を持つクラスメートたちには、彼女の心の壁を破ることはできなかった(実際、彼女は周囲からは魅力的にうつった)。だが、そんな彼女はクラスの恋愛事情に一番詳しく、彼らの恋愛成就には喜びを、失恋には悲しみを心の中にだけ抱いていた。彼女は恋愛というもの外側から見ているのが好きで、自分は一生そうなのだろうと思っていたが、いま彼女はその当事者になっていた。


 ミス・シンシアの心はいま、店で毎週木曜日の午前八時くらいに古パンを二個買ってくれる中年の男性に向けられていた。彼の顔は弁当箱のように四角く、威厳があり、ミス・シンシアと同じで無口だったが、礼儀正しく優しそうだった。

 何度も通ってくれるので、ミス・シンシアと彼はカウンターでの会計のときに、今日の天気だとか、政治家の悪口だとか、たわいもない話をたまにする間柄になったが、お互い、自分のこととなるとあまり話さなかった。

 ミス・シンシアは彼に意識してもらおうと、いつもの茶色で無地のエプロンではなく、水玉模様のかわいらしいエプロン着るようになった。他人にどう思われるかといったことで自らおめかしするのは、彼女の人生で初めてだった。しかし、それは、相手がどう感じるかといったことを無視し、彼女の中で完結したものだった。


 ミス・シンシアは自分が嫌になっていた。彼女は彼について深く知りたいと強く思いながらも、そういった術を持ち合わせるような人生を歩んでは来なかったのだ。それでいて、自分についてもなかなか素直に話すことができないことも、彼女を自己嫌悪に陥れさせた。どうして学生たちはあんなにも直接的なアプローチができるのか、彼女には理解できなかった。ミス・シンシアも彼も、お互いの名前すら知らなかった。

 どうにかして彼の名前を知ってもっと仲良くなれないかしら、とミス・シンシアは考えた。だが、その最も簡単な方法である「あなたのお名前はなんですか?」という質問をしようという考えは彼女には実行できなかった。恋愛に対して常に傍観者であった彼女には、その第一歩がはるか千里の距離に見えた。


 ある午後の日、いつものリーンという音とともに、一人の初老の男が入ってきた。縦に短く横に広い体躯に、卵のような丸形の頭を乗せ、さらにその上に黒色できれいに整えられたボーラーハットをかぶったその姿は、一度見ると忘れられないものだった。


「あら、エリオットさん、いらっしゃい」


「こんにちは、ミス・シンシア、今日は良い日和ですな」


エリオットは二か月ほど前から仕事でロンドンを訪れており、一か月ほど前からこのパン屋に通ってくれ、今では常連になっていた。彼は、フランス訛りの英語を話し、ユーモアにあふれ、とても観察力のある人だった。


 ミス・シンシアは、人付き合いが苦手で、心と口がなかなか連動しない性格だったが、エリオットだけは別だった。彼が、ミス・シンシアと三十以上の年の差があることや、言いたいことをうまく引き出してくれるような話し方をしてくれること以上に、その人当りの良さが、ミス・シンシアの心の壁を破った。エリオットは彼女にとって店の常連である以前に、よき友であり相談役だった。そして、同じロマンスを愛する者でもあった。


 その日、エリオットはいつものように日替わりパンをトレーにのせてレジへ運んだ。


「ミス・シンシア、何か悩み事ですかな」財布から目当ての小銭を楽しそうに探しながらエリオットは訊いた。


「ええ、とても悩んでいます。私はどうすればいいんでしょうか」


「ふふ」エリオットはよくこんなふうに笑う。

「それだけでは、あなたが何に悩んでいるかわかりませんよ。しかし、このエリオットが当ててみましょう。あなたはいま恋をしているのではありませんか?」


彼は、まるで猫のように、目を好奇の色に光らせていた。


「まぁ!どうしてわかったのですか?」


「ふふ、もう六十余年も生きているとね、恋する乙女の顔には、みんな同じ特徴をもつということがわかるようになるのですよ」彼は誇らしそうに言った。


「あなたは本当に話しやすい人ですね」ミス・シンシアは心からそう思った。


「このエリオットに話してごらんなさい」


 ミス・シンシアは、まだ名前も知らない彼について、ぽつぽつと話し始めた。自分が彼をどれほど想っているか、そして、それを言葉にできない自分にどれだけ嫌気がさしているかということも、エリオットにだけは話すことができた。


「なるほど、あなたはいままで恋に胸を焦がしたことがなかったため、うまく行動できないと」エリオットは無邪気な顔に真剣な目をしていた。


「はい。それに、私は彼とは年も離れているし、世の中には私よりもっと若くてきれいな女性たちがたくさんいるし・・・」ミス・シンシアは話すと逆に不安になって、深く考え込んでしまうタイプだ。


「なんて馬鹿馬鹿しいことを言うんです!いいですか、ミス・シンシア、世の中には、出来損ないの脳細胞と、聖母マリアのような美しい顔を合わせ持った女性などごまんといますよ。あなたは、自分が考えているよりも、心も顔も美しい女性だと私は思いますよ?」エリオットは年のせいなのか、こういった、こっぱずかしいことを平気で言えるのだ。


「私があなたならすぐ彼に告白します。しかし、それがあなたにとってどれほど難しいことかもよく理解できます。ミス・シンシア、彼をよく観察しなさい。彼も自分のことを進んで話そうとはしないでしょう。ならば、目に見えるところから、彼について知ろうとするしかありません。それ以降は行動あるのみです。勇気を出して」


「あなたの得意な観察ですね」


 エリオットはウィンクして店を後にした。

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