とある夜のリンカーン
萬朶維基
とある夜のリンカーン
第十六代アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンがフォード劇場にてその劇的な人生に幕を下ろすその二週間前、彼は自らの死を予知夢によって予見していたと、伝記作家ウォード・ヒル・ラモンは伝えている。
リンカーンが友人であったラモンに語ったところによると、その夢は人々の啜り泣きから始まったという。泣き声の主を求めて夢の中を彷徨い歩いたリンカーンは、やがて棺を囲んで泣き明かす葬儀服の集団に出くわす。いったい誰が死んだのかとそのうちの一人に尋ねると、彼は「大統領です。暗殺者に殺されました」と答え、そこでリンカーンは目が醒めた。
ホワイトハウスの幽霊やテカムセの呪い、ケネディとの不気味な共通点に並んで、この予知夢はリンカーンにまつわるオカルティックなエピソードとして広く知られているが、最近の調査によって予知夢から目が醒めた後のリンカーンの行動も明らかになった。
***
一八六五年。四月初めのまだ肌寒い深夜、悪夢そのものというべきその予知夢から目覚めたリンカーンは、闇の中でホワイトハウスの天井を眺めながら、小一時間ばかりベッドの中で冷や汗と動悸がおさまるのを待っていた。
隣で何も知らずに眠りこけてる妻メアリー・トッドの規則正しい寝息を聞いているうちにどうにか落ち着いたリンカーンは、立て続けに寝返りを打った後、ひとまず沈みきったこの気分を変えようとランプに火を入れ厠へと向かった。
自分が死ぬ夢とか、マジで嫌だな。
あと百年は生きたいのにな。
何というかこれって、何かの暗示なんじゃないのかな。大統領二期目はちょっと無理とかそういう……ヤダヤダ、暗いことばかり考えちゃう。
昨日は絶好調で仕事も快調な全然いい日で、朗らかな気分のまま就寝したってのに、どうしてこんなことになっちゃったんだろう。こんなんじゃもう寝れないよ……。
どっぷりと夜が沈澱するワシントンDCでマイナス思考をぐるぐるさせながら、世界にたったひとり自分だけいるような気持ちで放尿し終えたリンカーンは、暗闇の充実から逃げるようにそそくさとベッドへと戻った。
そしてランプを消す前に、ちらりと時計を照らしてみると、針はリンカーンが就寝してから二時間分しか進んでいなかった。
二時間て。
全然眠くないのに、たった二時間しか寝ていない……。
夢の内容うんぬんよりこの事実のほうが、リンカーンにとってはキツかった。
何しろ大統領だ、明日も明日とて大量の職務が待っている。そして寝不足を気力でどうにか出来る年齢ではないことは彼自身が一番良く知っていた。
南北戦争の難局もしっかりと睡眠をとっていたから乗り越えられたようなものなのに、これでは、まずい。最低、あと四時間は寝ておきたい。だが寝れる気分では全くない。
どうする?
ジェファーソンで父とともに先住民にブチ殺されたり選挙に落選したり南軍にボコボコにされたり、人生五十六年、そういう悪夢なら人並みに見てきたつもりだったが、今回の悪夢はその中でもトップクラスにキツい。
しかしそこはアメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンだけのことあり、こういう時のメンタルの持ち直しかたを彼は弁護士時代に身に着けていた。
要は悪夢を悪夢でなくしてしまえばいいのだ。
ベッドの中で目を閉じて、さきほどの夢の光景をふたたび思い浮かべる。
二度寝すると夢の続きを見るというのはよくあることだが、リンカーンはそこで寝入る直前に無理やり夢の内容を変えてしまうという術を習得していた。
自身の遺体が入った棺を囲んで泣き崩れる喪服の集団。
まず、そこに恐竜メガロサウルスを乱入させた。
リチャード・オーウェンによって太古の爬虫類が恐竜と命名されたのが約四半世紀前の一八四二年なので、リンカーンもまた当然のようにその存在を知っていた。
そしてそのごつごつとした巨体の背に新任の副大統領アンドリュー・ジョンソンを乗せた。副大統領は喪服の集団に向けて、機関銃のように大量のトマトを投げつけはじめた。あっという目に啜り泣きは悲鳴へと変わり、会場はトマトでグチャグチャになった。
だいぶ楽しくなってきた。
仕上げとばかりに、恐竜の肛門からヴィクター・フランケンシュタイン博士がヌルリと現れた。メアリー・シェリーが『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』を発表してからこの時で四十七年が経過していた。
雷鳴とともに博士が棺の中のリンカーンを蘇らせると、リンカーンはそのまま勢いよく空へと旅立った。
その後は月まで鉄道を敷いたり七面鳥をたらふく食べたり南軍をボコボコにしたり、そういう楽しい夢を取り留めもなく見ながらリンカーンは朝までぐっすり眠り、寝不足や悪夢の残滓に悩まされることなく一日の職務を全うしたが……代わりに予知夢の警告は失われた。
暗殺の二週間前のことであった。
とある夜のリンカーン 萬朶維基 @DIES_IKZO
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