第36話
ミルピスと利尻山
「暑っつい!」
ガバッとシュラフを引っぺがしテントのチャックを全開にすると、そう叫びながら飛び出て来たのは薫だ。
テントから顔を出し薫に日差しを浴びせる陽光を、目を細めながら睨みつける。
「なんで此処だけピンポイント?」
薫の周囲には背の高い樹々が生い茂り、正に林間のキャンプ場なのだが、迫り出した葉枝の合間から陽の光が薫のテントを照射していた。
周囲には数張りのテントが在るものの人影は無い。
此処は利尻山の登山口のある利尻北麓野営場。
大半の宿泊者は利尻登山の為に早起きして山を登るのだ。
8時半
寝坊と言う程の時間では無いが登山者としては遅い時間だ。
朝日をたっぷり浴びて蒸し風呂の様なテントの中に比べ、辺りの空気は涼しくて日の光が気持ち良い程だ。
「あ〜ぁ!今日は何をしようかしら?」
薫は暑いテントからのっそりと出ると大きく伸びをしながら呟いた。
昨日は網走から稚内まで走った上に、買い物やフェリーへのバイクの積み下ろしやらで疲れていたし、フェリーが鴛泊の港に到着したのが夕方だったのもあって、このキャンプ場に直行して軽く夕食の直後に寝落ちてしまった為、殆ど何も見ていない。
今日は利尻島をぐるっと一周してみよう。
薫はそう決めると朝の身支度を整え朝食の準備に取り掛かる。
島へ渡る前に多少の食料を買って来たが、バイクで移動中では基本保存の効くものばかりだ。生物や生野菜などは余り買えないし、嵩張るので買わない。
薫はお湯を沸かす間にコーヒーの準備をする。
響子から拝借したコーヒーミルに豆を入れゴリゴリと豆を挽き、フィルターをセットしたシェラカップに入れるとお湯を注ぐ。
途端にコーヒーのほろ苦い香りが辺りを包んだ。
「ヨイショっと!持って行くものは特に無いかなぁ。」
FZにタンクバックをセットしながら装備を確認する。
フライパンで焼いた食パンにマーガリンを塗っただけの朝食を済ませた薫は、早速物見遊山のツーリングに出掛ける事にした。見て周るだけなので持ち物も特に無い。
ブフォウ!ヴォヴォヴォヴォッ!
チョークを引きエンジンを始動させる。
間を置かずにアイドリングが上がるのを確認するとチョークを戻しFZを暖気しながらジャケット、ヘルメット、グローブを身に付ける。いつものルーティンだ。
凸凹としたキャンプ場をエッチらオッチらFZを押して向きを変えると、ヒラリと跨りゆっくりと走り出す。
土が剥き出したキャンプ場から出ると少しスピードを上げた。
FZのあちこちでパチンッコツンッとタイヤの溝に挟まっていた小石の破ぜる音が聞こえなくなって暫く、昨日入った温泉前を通り過ぎ更にスピードを上げる。
濃い緑が次第に明るくなり、町の家々が増え出すと程無く道が突き当たる。
利尻島を一周出来るメインの道路だ。
薫は一時停車しどちらに曲がるか一考する。つまり、右回り、左回りどちら周りで一周するか?
薫としては何方でも構わなかったが、彼女には目的の場所がある。まずはそこへ向かってみよう。
薫はFZを左手に向けた。
間散に立ち並ぶ家々の間を抜けると、右側に濃く蒼い海が見えて来たがまだ遠い。
海沿いを走っているはずなのだが、随分と内陸寄りの様で島縁の緑と白い雲が浮かぶ淡い青空の間に僅かにしか見えない。
薫の正面には青と蒼の隙間をゴツゴツとした黒い影の様に見える島が現れる。
利尻島に程近い礼文島だ。
フェリーから見た、海から大きな山が飛び出ている様な利尻島と違って、此処から見る礼文島は横に間延びた普通の島に見える。
標高の高い山岳部も無い様だ。
FZを進めると海沿いの建物の間から礼文島と海が大きくなって行く。
キラキラと輝く水面に時折、小さく白波が確認出来る。風は無いものの海は少し荒れているのかもしれない。
小さな港や集落を通り過ぎ、周囲が草原の様を呈してきた。すると左手に小さな看板と赤い幟を見つける。
どうやら薫の御目当ての場所に到着したよう。
薫はFZを、家が数軒軒を並べる看板の手前の砂利道に頭を突っ込み脇道の隅にFZを止めた。
数メートル先には“ミルピス”と手書きの看板の付いた民家が見える。入り口であろう両開きの引き戸の横には真っ青なシャッターが目を惹く。どこか地元の駄菓子屋を思わせる佇まい。他の建物は普通に住宅や物置のようだ。
「ここで合ってるよね?」
一人呟くと恐る恐る近づく。
お店の営業時間的には若干早い時間もあり、お客と呼ばれる者は薫だけの様で、車や人気は無い。
営業しているのかも疑問だが、意を決して入る事にする。
「こんにちは〜!」
引き戸を開け中に入る。
そんなに広く無い店内には、雑多に物が乗ったカウンターに四人掛けのテーブルが幾つか。駄菓子屋と思っていたらもんじゃ焼きもやっている店っだった感じだ。もしくは定食屋。
壁には所狭しと、写真や新聞の切り抜き、以前に来たお客のメッセージなどが貼られていて、その隙間に申しわけ程度に手書きのメニューが並んでいる。
“アロエ”に“しそ”などはまだ想像できるが、中には“行者ニンニク”や“利尻昆布”など、ジュースとして全く想像出来ない。
「いらっしゃい。よう来たね。」
呆然とメニューを見詰めていた薫の背後から声をかけて来たのは、見た目50歳前後に見えるお母さんで、カウンターの奥から出て来たのを見るにお店の方の様だ。
「あっ、どうも、こんにちは。」
不意に掛けられた声に驚き、なんだか変な挨拶が出て来た。
「オートバイで来る女の子なんて珍しい。ミルピスで良いかい?」
お母さんはそう言いながら、ガラス張りの冷蔵庫から1本の牛乳瓶を取り出してテーブルの上に置いた。
白濁した液体の底に白い沈殿物、小さめのビンの側面には大きく赤でミルピスの文字。
これが薫目的のミルピスの様だ。
利尻島でしか飲めないと響子達から聞いていたので、もっと手作り感満載なのかと思っていたのだが、印刷された瓶と紙キャップを見るに商売として成り立っているらしい。
「ありがとうございます。」
薫は椅子に腰を下ろすとミルピスを手に取りマジマジと見詰める。
薄いカ○ピスの様な液体に4分の1程の白い物が沈んでいる。
「良く振ってから飲みな。」
薫の前にプラスチックのお皿が出て来た。中にはカッ○えびせんが数本入っていた。
「サービス!食べな〜!」
ヒラヒラと手を振りながらカウンターに向かう姿が可愛らしい。
「頂きます!」
早速ミルピスを口に運ぶ。
ほんのり甘酸っぱい。思ったよりミルク感は無かった。喉の奥に残る感じが無くてカ○ピスより好きかもしれない。
せんべいを摘みながらあっという間に飲み終わってしまった。
「ご馳走様でした。」
席を立とうとする薫に、お母さんが
「これも飲んでみて!」
そう言うとコップを二つテーブルに置く。見ると淡い黄緑色と鮮やかな朱色の飲み物。
「こっちがコクワ、でこれが野グミ。」
お母さんがそれぞれ指差す。黄緑がコクワで朱が野グミらしい。薫には両方とも聞き覚えがない。
「こちらの果物なんですか?」
「山に生ってるのよ。まぁ飲んでみな!」
尋ねる薫にまず飲んでみろとの事。
「ありがとうございます。じゃあ頂きますね。」
薫はコクワ、黄緑色の方から頂いた。爽やかな酸味の中にフルーツっぽい甘さ、とても飲みやすい。
続いていただいたのは朱色の果肉が漂う野グミ。
こちらは酸味よりも甘味が強くてさっぱりとした飲み心地。
何方も初めての味ながら薫の好みだ。
「山登りに来たのかい?」
不意にお母さんの声が響く。間違いなく利尻山の事だろう。
「いえ。特に予定も無く来てみたんですけど。」
「一度登ってみな。普通の山と違った景色が見れるよ。」
「へぇ〜どんな?」
「それは登ってみないとねぇ。」
興味を見せた薫の質問はやんわりとはぐらかされてしまった。
山登りなど小学生の頃に遠足で行ったくらいしか思い当たらない。日頃は男友達や先輩とサバイバルゲームに興じて野山に行く事もあるものの、本格的な山登りは経験が無い。
「ご馳走様でした。全部美味しかったです。」
「また来なよ〜。」
お礼を言う薫にお母さんは店の外まで出て来て手を振る。全く可愛いお母さんだ。
FZに跨り走り出した薫の瞳の端に、大きな利尻富士が雲一つ無く綺麗に映った。
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