第32話

湖上と遡上


静かに揺れる水面に、陽の光が反射して少し眩しい。

時間的にも汗ばむ陽気になっていた。

湖面から生える木影は涼しげで、あそこで昼寝でもしたら気持ち良く眠れそうだ。

小屋の裏にあるコンクリートの石段に膝を抱えて座り込みながら、水上にベットを作れないか、薫は本気で考え始めていた。

この非常時に少しでも楽しめたら?

それと言うのも台風が齎した大雨で、網走湖畔にある呼人浦キャンプ場は目下の所網走湖に沈んでいた。

足を投げ出さずに抱えて座っていたのは、薫の座っている石段の30センチメートル程下には湖面が広がっていたからだ。

テントを張ってキャンプという訳にもいかない。

数名で避難の出来る小屋があったのは不幸中の幸いであったが、いつまでもこうしている訳にもいかない。だが、他のキャンプ場がどうなっているかも見当もつかないこの状況で移動を始めるのも憚られた。

そう、薫は疲れていた。

昨晩の怒濤の避難劇と慣れない集団生活に。


「皆んなは元気だねぇ。」

左手、元来ならキャンプ場であったはずの水上を数人の男女が走り回っている。

何処から出したのか?黄色のボールを蹴ったり投げたりしながら所狭しと馳けるその姿は、遊び盛りの子犬のようだ。

膝ほどまである水位を走っているのだから、当然のように全身びしょ濡れである。

薫にはそこまでの元気は無かった。


程なくして濡れネズミならぬ濡れ犬達は戻って来た。

「あ〜疲れた〜」

フラフラと先頭でやって来た保母さんは、薫の横に大の字になる。

「あ〜走った!走った!」

ナベ君もそう言いながら小屋を背に座り込んだ。

「ふぃ〜!」

「こんな全力疾走、何年振りやろ?」

「もういいやって感じ〜」

各々疲れ果てた様子で地面に突っ伏した。

「私はまだいけるよ!」

「うん。」

「余裕っしょ!」

そんな中まだ元気なのはモモと石川県の二人だ。

「今日はそこに行こうかと思ってさっ!」

「ほんなら直ぐに行こうや!ビショビショの方がええやん!」

「着替えないでこのまま歩いて行ったろ!」

そんな中聞こえて来たのは次郎とクズ君と鈴木さんの声。

どうやら風呂に行く行かないで言い合っていたのがどう転がったのか、いつもは料金が高くて行かないキャンプ場に近いホテルの風呂に、この格好のまま歩いて向かう話で落ち着いていた。

「良いねぇ!私も行く〜!」

「俺らも!」

再び湖上に走り出しそうな勢いだったモモと石川県達や保母さんもナベ君も、濡れた犬どもはもれなくホテルに嫌がらせに行くようで、過去にホテルとどの様な因縁があるのかは薫にはわからないが一致団結して出掛けて行った。


昨日のドタバタが嘘の様に穏やかな時間が流れて行く。

ゆらゆらと揺れる木陰と適度な気温にウトウトし始めるも、ずっと同じ所に座り続けた尻が痛み出したところで立ち上がり身体を伸ばす。

と、湖を眺める薫の視界の端からスーッと進む長細い影が入り込んできた。

左右に尖り中央に突起のあるそれは、木の葉の繁った暗がりから陽光の降り注ぐ明るい湖面へと進み出ると一気に色づいた。

朱色と黒のの帆布に紫のジャケットを着た人物の上半身。それがフォールディングカヤックと言う組み立て式のカヌーであるとは薫には知る由もないが、両側に櫂のあるオールを漕ぐ人物に見覚えが有った。

「太郎さん?」

今朝早くにスーパーカブで現れて、浸水した自分のテントを片付けていたと思っていた人物が何故あそこに?

朝の太郎の様子と今の姿が結び付かない。

そう言えばテントを乾かしながら奥で何かを組み立てていたのを目撃している。それがあのカヌーなのだろう。

組み立て式カヌーの存在を知らなかった薫は、カブで来た太郎がカヌーを持っているなどと毛程も思っていなかったのだ。

「ふ〜ん。あんなのが有るんだ。面白〜い!」

薫が見守る中、太郎の操るカヤックはスイスイと進み、今朝まで太郎のテントが張ってあった辺りまで行くとクルクルと行ったり来たりし出した。

「何してるのかしら?探し物?」

直ぐには戻って来そうにないのでコーヒーでも淹れよう。


窓際に座りコーヒーを飲んでいると太郎がこちらに向かって来ているのが見えた。

程無く戻って来た太郎は、先程まで薫が座っていた場所にカヤックを停めた。

「ウロウロしてたみたいですけど何か探してたんですか?」

「やっと見つかった。」

尋ねる薫に太郎は手に持ったキーホルダーの付いた鍵をチャラチャラと片手で放り上げながら答えた。

よく見るとそれはバイクに乗っていればよく見る、ホンダ製の安っぽい鍵。

「もしかしてカブの鍵落として探してたの?」

「あぁ、気付いたら無くてさぁ。困ったよ。」

そう言いながら照れた様に微笑む。

「よく見付けましたね。」

この広い範囲で沈んだ鍵を見付けるのは困難そうに感じる。

「通った場所は略一本だし、水も案外綺麗で地面も結構見えたからね。」

「ふう〜ん。でも見付かって良かったですね。」

「日が当たって光ってたから。天気のお陰もあるね。」

この長閑な台風一過のお陰で見付かったのも因果なものである。

「良かったらコーヒー飲みます?」

「良いの?」

「自分の入れたところなんで、次いでです。」

「じゃあ、有り難く!」

薫は慣れた様子でバーナーに火を付け湯を沸かす。

「あれ?!次郎達は?」

辺りを見ながら太郎が尋ねる。小屋の中にも周囲にも次郎達の姿は無い。

「次郎さん達はお風呂に行っちゃいましたよ。」

薫がすったもんだしながらホテルの風呂に行った事を伝える。

「あっはっはっ!あいつららしいね。」

太郎は大笑いしながら言うと、

「あっそうだ!今のうちに乗ってみる?」

淹れたコーヒーを受け取りながら尋ねて来た。

「?!」

「嫌じゃ無ければ乗って良いよ。カヤック。興味無い?」

「有ります有ります!でも乗った事無いんですけど大丈夫かな?」

太郎が乗っていた時から興味津々だった薫にとっては渡りに船。乗ってはみたかったものの、今日初めて会ったばかりの自分から乗せて欲しいとは言い出し辛かったのもあって、即答する。

「う〜ん。流れも殆ど無いから大丈夫だと思うけど、心配だったら慣れるまでキャンプ場から出ない方が良いかな。ひっくり返ったら無理して乗り直さないで泳いで押して来れば良いし。でも湖だったら直ぐ慣れると思うけど。」

太郎の言葉に甘えてカヤックをお借りする。

小屋から裏手に出ると、まるで誂えた様に左右に出っ張ったコの字のブロックの間に朱色と黒、ツートンのカヤックがハマる様に停泊されていた。

「前から入っちゃったから、乗ったら押すよ。」

どうやら前向きに止めてしまったらしく、バックで乗り出さないといけない様だ。

「はい。」

薫は答えながらカヤックに片足を乗り込ませる。

アルミのフレーム以外は布の様な素材で、体重をかけると僅かに撓む。カヤック自体も沈み込み薫は少しバランスを崩した。

多々良を踏んだものの何とか堪えるとカヤックのシートにゆっくりと座り込む。

ゆらゆらと頼りなく揺れるが思ったほど不安でも無い乗り心地だ。

「適当に遊んで来て良いから。ただ湖の河口の方には行かない方が良いよ。流れが早くて戻って来れなくなる。」

太郎がそう言いながら右手の方を指差す。

ここからは見えないが、右手に進むと網走湖はやがて狭くなって網走川となり市街を抜けて港のあるオホーツク海に出る。

いつも出がけに通る国道から見る網走川は緩やかながらも結構な水流だった事を思い出した。湖が増水している今ではいつにも増して激しい流れになっている事だろう。

「わかりました。気をつけます。」

「じゃあ行ってらっさ〜い!」

薫が答えるや否や太郎は陽気に声を上げると同時に、薫の乗ったカヤックの帆先を勢い良く押し出した。

バックの状態で飛び出した薫は漕ぎ方や諸々を聞いてない事を思い出すが。

「動かし方はやってれば慣れるから!」

太郎のその言葉で説明する気が無いことを知った。

「本気で?!」

薫の乗ったカヤックは太郎に押されるがまま、惰性で10メートル程バックの状態で進むと動きを止めた。

波も流れも無く緩やかに揺れるカヤック。

水の下には元来キャンプ場であった青い芝生が水草の様にゆらゆらと揺れていた。

深さで言えば約4、50センチメートル。これならカヤックから落ちても転覆しても大丈夫そうだ。

「取り敢えず、練習がてらテント張ってた所に行ってみようかな?」

薫のテントが有った場所は、小屋から3、40メートル程であろうか。

薫はぎこちないながらもオールを使い、ピッチャンピッチャン進む。

小屋周辺の数本の木々を抜けると少し離れて2本の木が並んで立っている。その右側が薫の住いであった場所。手作り感のある木製のプランター付きベンチの向こう側だ。

なかなか真っ直ぐに進まないカヤックを何とかベンチの側面に停泊させる。

ベンチに手を付くとぐらりと傾いだ。

木製のベンチは若干浮いていて、プランターに入った土の重みで底を付いている状態だった。よく見れば湖沿いに綺麗に並んでいたベンチが浮いたり流されたりして、ガクガクと不規則な並びをしている事が分かる。

歯が抜けた様に所々隙間も見受けられる。流されてしまったのかもしれない。

オールをベンチに引っ掛け落ち着くと、薫は改めて自分のテントの貼ってあった場所をまじまじと見回した。

数日張り続けたその場所は、青かった芝生が白いモヤシの様になっている。前室であった部分は茶色い土が剥き出しだ。

長くテントを張るのも考えものだと思う。

綺麗だと思っていた水は、少し濁り底はくっきりとは見えなかった。

太郎はこんな状態で良くも小さな鍵を見つけたものだと感心する。

と、ベンチの直ぐ横の湖底に光る物を見つけた。

拳程のそれは陽の光に鈍く輝いている。

薫はそれを手で拾おうと思ったが、カヤック上からは届かない。無理に手を伸ばしても転がって転覆しそうだ。

考え手に持つオールで掬おうと試してみたものの、コロコロ転がるだけでサルベージ出来なさそう。

落ちているそれが気になるものの、今は諦め次回、歩いてくるか水が引いてからにするか?などと考えながら手に持つオールをコロコロと弄ぶ。

と、手に持つオールが分割式である事に気がついた。

「あぁ。本体が組み立て式なんだったら、これだってそうか!」

一人納得するとオールの中央部にある突起を押しながら引っ張る。

スッポンッと小気味良い音と共に薫の両手には半分ずつのオールが。それを使い箸の要領で目的の物を拾い上げた。

「あっ!」

艶の無い燻んだシルバーの小さなコッヘル。薫はそれに見覚えがある。と言うか。薫の物であった。

避難のドタバタで落としたか起き忘れたのだろう。コッヘルセットの一番小さい子だ。仕舞われたコッヘルセット中まで確認はしていなかった事も忘れ去られた原因かと思われる。

拾い上げるまで気にも留めていなかった。

他にも落とし物があるかも知れない。コッヘルを足元に放り込むと、薫は揺れる水面のその向こうに目を凝らす。

だが、青い芝生がユラユラしているだけで、何か人工物は目に留まらない。カヤックの周囲を見回すが同様であった。

ボコン!ボンッ!

と突然、キョロキョロする薫の尻の辺りでそんな音と共に軽い衝撃を受けた。

今、薫はカヤックを動かしていない。

座礁してカヤックの腹を剃った訳では無さそうだ。

ボンッ

考えているうちにも再び振動が伝わる。

「えっと!下に何かいる?!」

薫は三度湖面に目を凝らした。

先程と変わらず揺れる芝生が見えるのみ。

「何あれ?!」

青い芝生が黒い物で見え隠れしている。

しかもそれは一つや二つでは無かった。

少し濁った水の中を何やら無数に泳いでいる。

「あわわわわっ!」

薫の背中と首元をゾワゾワしたものが這い上がる。

想像のつかない生物群の只中に薫はカヤックを浮かべている。

「嘘でしょ!」

オールを急ぎ組み立て、小屋まで急ごうとしたその時、薫の数メートル先、本来の網走湖の辺りを飛び跳ねる一匹の魚を見た。

大きく飛び跳ねたその魚は、丁度薫の視界の真ん中をスローモーションの様に空中で弓形になる。

それを見て薫のゾワゾワが安堵に変わった。

「何かと思ったら鮭かぁ〜!あ〜怖かった!変な汗出ちゃった。」

考えてみれば得体の知れないモノがキャンプ場の有る湖にウヨウヨと居るはずは無いのだが、薫は湖面を覗き込みながら未知の生物に囲まれた瞬間を思い出し、再び寒気を感じた。

「…う〜…で、でも結構な数ね。」

薫の言う通り周辺にはかなりの数の鮭が泳いでいる。時には湖底の芝生が見えなくなる程に。

遡上中の鮭など直接見たのは初めてだったが、以前にテレビのドキュメンタリーで見た川の浅瀬を傷付きながら遡って行く様な悲壮感や荘厳さは感じない。

まだ遡上を始めたばかりの海から近い網走湖で見る鮭の姿は、何処ぞの池の鯉と変わらぬ姿なのは仕方の無い事なのだろう。

そもそもが、呼人浦キャンプ場の中程には鮭の増殖場が有り、鮭はそこへ向かいイクラを取られて生涯を終えるのだから今ここに居る鮭達はその様な姿を見せる事はないのかも知れない。

だが、元来キャンプ場で有る場所を鮭が泳ぎ薫がカヤックを浮かべているのも不思議な感覚だ。

薫は台風で住まいを奪われたが、その中で普段出来ない貴重な時間を過ごす事が出来た。

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