第31話
台風一過と玉葱
チャプンッチャプンッ
薫は波が壁に打ち当たる様な音で目を覚ました。
呼人浦キャンプ場の小屋の中、薫は入り口から一番奥、裏口近くでシュラフに包まっていた。
隣にはモモが、その向こうに保母さんがまだ寝息を立てていた。
外は既に薄明るく、水音は裏口の外から聴こえている様だ。
身を起こし外の様子を伺うと窓から真っ青な青空が望める。薫がシュラフから這い出ると小屋の中の様子も見て取れた。早い時間の様で薫以外まだ誰も起きていない。
外の様子が気になった薫は、裏口の引き戸をそっと開け外に出た。
そこには湖があった。
小屋の端から本来の湖面まで3、40メートル程は有った筈が、小屋の縁まで湖が広がっていた。
キャンプ場の木々や花壇の乗っかった木製のベンチ、夕陽をバックに写真を撮った網走湖の看板も全てが湖の湖面から伸びている。
空は薄く青白いが雲ひとつ無い。
正に台風一過。
小屋の端にはこの字になったコンクリート製の段が有ったのだが、半分沈んで今では小舟を停泊できそうな桟橋の様になっていた。
静かに揺れる水面が桟橋でチャプンッと弾けた。
朝陽が登る前の刹那の一時。風の音も鳥の囀りも何も聞こえない。人の喧騒も車の音も無い自分しか感じない瞬間。
薫はこの瞬間が好きだった。
薫が立つ左斜め前方、何本かの木々のその向こうに離れた並ぶ2本の木があった。
湖の際に立つその木の横に昨日まで薫はテントを張っていたのだ。
横にはテーブルに椅子にと大活躍のキャンプ場備付のベンチが。テントの前には皆で食事するのにも日向ぼっこしながら昼寝するにも便利な湖岸の赤段。
眼前には大きく広がる網走湖。振り向けば自分のプライベートルームと相棒のFZ。
こんなシチュエーションのキャンプ場は余り無い。
お気に入りのキャンプ場で過ごす日々。好きな瞬間と気に入った場所。
今は湖に沈んでしまった。
今あるのは湖だけだ。
また足元でチャプンッと鳴った。と同時に微かに遠くからトコトコと音が聞こえる。
暮らしていれば何処でも聞いた事のある慣れ親しんだ聞き馴染みのある排気音。
スーパーカブの後だ。
新聞配達のカブが走っていてもおかしく無い時間帯。薫も何の疑いも無くそう思っていたのだが、次第に大きくなって行く排気音はキャンプ場の前を通り過ぎずに入って来る気配がする。
薫は小屋の中の仲間達を避け、時には跨いで表に回る。
表の戸口から外に出ると、並べてあるカラーコーンと虎バーを器用に避けて、新聞紙では無い荷物を積んだスーパーカブが入って来る。
明らかにツーリングライダー。
慌てて飛び出てしまった手前何か言おうと、慌てて小屋から少し離れた所にカブを停止させたライダー挨拶をした。
「お…おはようございます。」
ちょっと声が裏返った。
「えっと、はい。おはようございます。」
ヘルメット越しの声は男性の様だ。
背はそれほど高く無く薫より頭半分低い、ずんぐりとした体型にモンベルの紫色のジャケットとGパン。
スーパーカブには長期滞在者では無いのか少なめの荷物が括り付けられている。
「あのぅ今このキャンプ場は閉鎖中で…」
「あぁ知ってる。クズ君に聞いたから。次郎はいる?」
薫の言葉を遮って出た名前は、クズ君と次郎。ではこの人が太郎、もしくは失業手当の帰宅者のどちらかだろう。
「はい。でもまだ寝てますね。」
「そう。」
薫の答えに頷くとヘルメットを外して荷物を下ろし始める。
丸顔の恵比寿様の様な顔。歳の頃は次郎と同じ位の25、6位だろうか?
「こんなになってるとはねぇ。予想以上だ。」
クズ君に様子を聞いていたのだろう。現状は想像したより酷かったらしい。
「クズ君も来たのは暗くなってからだし、私もこんなになってるとは思いませんでした。」
「初めてだよ。こんなのは。」
太郎の言葉には、この呼人浦キャンプ場に長期滞在していると薫に想像させた。
もしかしたら響子達と会った時もいたのかもしれないが、それ以上。何年も通っている様な予感がした。
「そうなんですか?」
「えっうん。長い事居るけど初めてだ。」
「どの…」
「あっ太郎!来てたのか?!」
どの位から居るのか尋ねようとする前に後ろから次郎が声を掛けて来た。
「あっ本当だ!太郎ちゃんお帰り!」
ひょっこりと保母さんも顔を出す。
「あっ…うん。」
二人が寄って来て何やら話し始める様子を見るとかなり親しい距離感を感じる。
薫は太郎に尋ねようと思っていたのを、またの機会でいいかなと考え顔を洗いに炊事場へ向かった。
避難中なのもあって簡素な朝食を終えると、男性陣(と行っても鈴木さんと石川県達の3人だけだが)はサンダル、短パン姿で沈むキャンプ場に飛び出して行った。
陽が昇ると気温は上がり始め、水遊びには適度な陽気なのもあり3人に続いてモモとナベくんと保母さんも飛び出て行ってしまった。
湖の水位は上がりも下りもせずキャンプ場の大半を沈めていて、背の低い保母さんの膝頭を沈めるほどだった。何処から出したのかビニール製のボールを蹴っては走り回っている。
次郎は早くもテントを干し始めていて、小屋の前の乾いたアスファルトの上にテントを仮組みしている。
太郎は皆が食事中に引き上げた荷物置きテントの中身を引っ張り出して、並べたり広げたりしながら干し終わり、今はその向こうで何かを組み立てている。
薫は水に浸かって遊ぶ気になれず、小屋裏のコンクリートに腰掛け眺めるでもなくぼうっと湖に向かい合う。
遠くで保母さん達の馬鹿笑いが聴こえる。
キャンプ場横の道路を走る車の音に混って、バイクの排気音も聞こえた。クズ君が帰って来たのかもしれない。
足元では相変わらずチャプチャプと波音が。辺りの木々からは蝉の音の間に鳥の囀りと木々の騒めきが。
何もする事のない日がな一日も良いもの。
食後に淹れたコーヒーは既に生温くなっていた。
響子のおかげで淹れるようになったコーヒーも、それなりに飲めるようになってきた。
それ程時間が経った訳でもないが、朝昼晩と時間が有れば淹れていた成果だろうか?
そろそろ豆とフィルターを買い足そう。等と考えていると、ポコポコと波音とは違った軽い音が足元で聞こえる事に気付いた。
「!?」
目を向けると波に揺れながらコンクリートにコツコツ当たる2個の玉葱が有った。
驚いた事に流される玉葱はそれだけでは無く、キャンプ場周辺を無数の玉葱が漂い流されて行く。
「何?これ!」
騒然な光景を呆然と見つめ続ける。
「上の畑から流されたんやろなぁ。ウチの所も結構流されてたわ!俺が育てたんもあるかもしれんのぅ。」
そこへ声を掛けて来たのはクズ君だった。
しゃがみ込んで一つ玉葱を拾うと、ポンポンと手の上でバウンドさせる。
「おはよう御座います。畑。休んでて良いんですか?」
「キャンプ場が沈んでた。言うたら片付けて来い言われたんよ。」
そう言いながら手に持った玉葱を、綺麗なフォームで湖目掛けぶん投げる。
大きく弧を描いた玉葱は、遥か遠くで小さな水飛沫をあげた。
「この様子やと、お役御免かもしれんなぁ。」
振り向き去り際、小さな声で呟くのを薫は聞いた。
薫はクズ君のこれ迄の旅も日常も知らない。次郎や太郎、保母さん達にしても、生活をこの数日共にしている程度。其れどころか、今この小屋で寝食を共にしている皆の本名すら知らないのだ。
一見すると危ういそんな関係と、気に入ってしまったキャンプスタイル。
薫はそれら全部を受け入れつつ有る。
深くは知らない、この場限りになるかも知れない気の知れた仲間と呼べる男女。
彼等との体験も、彼等から得られる知識も、薫が孤独に旅をしていては知り得ない貴重なものであった。
ここに至っては彼等の素性や日常は既に関係無く、この旅において薫にどの様な未知の体験やまだ観ぬ美しい風景を見せてくれるのか?そちらの方が重要で、本名?仕事?そんなものは此処には必要無い。
自分勝手にそんな風に考えていた薫だったが、きっと他の者達も同じ様な考えなのだろう。実際、今までに知り合った長期滞在者達に自分自身の事を根掘り葉掘りきかれた事は一切無かった。
薫にとって太郎の本名よりもこれ迄の旅の様子を、クズ君の日常よりもキャンパーネームの由来を聞いてみたいのだ。
そこには面白可笑しな出来事やエピソードが有るに違い無い。
それを実際に得る為、薫は旅を続けるのだろう。
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