第10話

野生生物と逃走


カムイワッカに暫く浸かり、服を乾かしがてら日向ぼっこをしている薫。

緩い温度だったにもかかわらず、川底を探して彷徨い泳いだせいか汗だくだ。

「グッグニャッ〜」

顔の汗を拭おうと手で顔を撫でると、両目に激痛が!変な声が出てしまった。そう言えば響子に川のお湯は強酸性だかアルカリ性で、目に入ると痛いと注意されたのを今思い出した。

タオルで顔を拭き痛みが治まるまで暫し待つ。早々に普通のお風呂に入った方が良いだろう。

そろそろ戻ろうかと川下へ。四つん這いで登った崖の上から下を覗くとカップルの姿は無く誰もいない。

「ふうっ‥」

薫は大きなため息を漏らしそろりと崖へ踏み出した。登りより下の方が断然難しい。登りと同じ様にずり落ちながら四つん這いになり、やっとの事で降り終えた。後は緩やかな降りだけなので滑らない様に気を付けていれば大丈夫かな。難関をクリアし足取りも軽い。そう時間もかからずに橋が見えて来た。


ガサッガサッ!バキッバキバキッ!

川のせせらぎの音の中に不意に草木を掻き分ける様な騒がしい音がしたのは、薫が川から林道に出る小道の手前まで来た時だった。

音が聞こえたのは川を挟んだ小道と逆側の崖の上の方。

「んっ‥?」

薫が振り向いて上方へ視線を向けると、視線と交差して上から下へ黒い大きな物が一瞬見えた。

ゴロゴロッ!ドッバシャーン!

大きな音を立てて落ちて来た黒い物体を目で追う。

岩?人?鹿?

川の中程に落ちて来た黒い物の正体をグルグルと想像したが、多分、恐らく、いや間違いなくあれだろう。

消去法で確実に熊であろう黒い物との距離、約10メートル。

「あうっ!熊じゃん!」

その時の薫の反応は素晴らしかった。小さく呟くと少し後退り、一目散に林道へ走り出す。

だが、林道まで出てもそこからどうするかまでは考えが及ばない。

そう彼女はバイクでここまで来ている。FZの所まで帰ったとしてもその後、追って来る熊からは薫の腕では逃げられないだろうが、取り敢えず熊が目を回している間に少しでも遠くへ!としか考えられない。小道を一足飛びに走り切り、林道へ飛び出した。

幸いな事にそこには朝見た赤い軽ワゴンがUターンしようとしている。さっきのカップルに違いない。

「助けて〜!」

薫は叫びながら両手を広げて車の前に走り込んだ。

「どうしたの?」

彼氏が運転席の窓を開けてキョトンとしている。

「すぐそこに熊が出て!」

そう言いながら後ろを確認するも、熊はまだ見えない。

「マジで!早く入りな!」

彼氏は薫を後ろの席に招き入れるとロックをかける。

薫はホッと一息、助かった。

「ありがとうございます。バイクだしもうダメかと思いました。」

薫が涙目でお礼を言うと

「どこに出たの?大丈夫だった?」

「近いのかい?こっちに来そうだった?」

カップルそれぞれが訪ねて来る。

「こっちに来るかは分からないですけど、出たのはそこの橋のすぐ下ですよ。」

そう言いながら薫が橋の方を見ると、カップルもギョッとしながら同時に橋に視線を向ける。

「車なら大丈夫だから安心してね。ちょっと橋の所まで進んでみよう。」

彼氏は車をゆっくり進め、橋の真ん中で止める。3人で橋の下や脇の小道を除くが熊の姿は無かった。

「あっあそこっ!」

彼女が声を上げ小さく指差す。薫もその方向を見るが見付けられない。

「あぁ。登って行ってるね。」

彼氏も見つけたらしく。熊の様子を伝えると薫も熊の姿を発見する。

「あっ!本当ですね。」

熊は薫と出会った場所から落ちて来た所を戻った様で、崖の上まで戻って川上の方向へ向かっていた。ぱっと見、薫では登れなさそうな急な崖だったが、流石の四輪駆動、僅かな時間で登りきり元気に普通に歩いて行く。あの様子なら戻って来る事は無いかな。

「行っちゃいましたね。もう大丈夫でしょうか?」

「そうだね。」

「オートバイの用意が終わるまで居てあげましょうか?」

薫の安堵の問いにカップルの二人は優しく声を掛けてくれる。

「多分大丈夫だと思います。他にも人が来たみたいなんで。」

道の向こうから白い乗用車がこちらに向かって来るのを見ながら薫は答えた。彼らにも熊がいた事を注意喚起しないとならないだろう。

警察や役場には彼らが連絡をしてくれるとの事なので、礼を言って表に出る。

「本当にありがとうございました。助かりました。」

「気にしないでね。こんな所に来てたらたまに見かけるからさ〜」

「気を付けてね。良い旅を!」

彼らはそう言いながら去って行く。かなり格好の良いカップルだった。彼らがいなかったらどうなっていただろう?想像するとゾッとする。

「取り敢えず降りよう。」

カップルに熊の事を聞いたのだろう。今来た車も直ぐに引き返すだろう。薫もさっさと降りる事にする。バイク一人で取り残されたらたまらない。

「熊鈴って必要かな〜」

着替えたヘルメットを被り考える。この先林道を歩く事もあるだろうし。

薫は走り出しながら歩きでなくても熊には追いつかれるだろうと思う。あの崖を登っていけるなら車が走れる林道など熊にとっては屁でもないだろう。よちよちと走る薫のFZなどでは後ろから余裕である。

「オフ車に乗っても一緒かしら?」

林道ぐらいはまともに走れる様になろうと、薫は木々の中の林道を走りながらそんな事を思った。


「あぁ〜なんかすごく疲れた〜」

この後知床峠を走る予定だったのだが、極度の緊張と疲労を感じて、止める事にした。のんびりと大自然の温泉に浸かって、気持ち良く峠道を攻めようと思っていたのが、ピリピリした温泉に忙しく入り熊にこんにちはして逃げ帰る羽目になってしまったけど‥

「貴重な体験をしたと喜んどこう。写真撮っとけば良かった。」

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