第9話

路上看板と湯の滝


今日の天気は快晴で、予報では20度近くまで気温が上がるらしい。


薫は早朝から用意をして準備は万端だ。行き先は知床のカムイワッカ湯の滝。昨日の話に出て来た所で滝が温泉になっていて湯だまりには入れる所もあるらしい。近くの知床峠はノブとザキさん推薦の峠道で、ウトロ側が高速、羅臼側は急なカーブが葛折になっていてかなり楽しいらしい。


「おっおはよう。早くからお出掛け?」

FZの暖気をしていると響子が声を掛けてきた。昨晩は結構な量を呑んでいたと思ったがその影響は見られない。

「おはようございます。起こしちゃいました?」

「うんにゃ〜いつもこんな感じ!って言うか、朝早いライダー多いから。」

気を使って周りにテントが無い所で暖気運転をしていたのだが、周りのライダーはお構いなしで早朝からエンジンをかけたり大声で喋ったりしていて、人気キャンプ場の朝はゆっくり寝ていられないのだ。

「今日は知床の方に行って来ますね。」

「行ってらっさ〜い!」

響子に見送られ薫はFZのギアを入れた。目指すは知床カムイワッカ!


キャンプ場を出て一路国道244号を東へ、斜里を抜ける前に薫のお気に入りの場所がある。濤沸湖の北に拡がっている原生花園。湖の脇では馬が放牧され、国道を挟んで釧網本線のある丘陵地には背の低い草木が生い茂っている。いつ走っても景色が美しい北海道ならではの景観だと薫は常々走る度に思ってしまう。同名の駅にある土産屋で売っている芋団子は、その美味さに初めて食べた時に落としそうになる程で、通る度に食べていたら売店のおばちゃんに顔を覚えられてしまった。今日は時間が早いので店はまだ開店していない。涙をのんで通り過ぎる。


斜里の長いストレートを抜けると道は334号になる。そのまま行けば海沿いにウトロまで一本道だ。

観光名所の滝とトンネルを幾つか通り過ぎると家屋がちらほら多くなって来て小さな山の様な大岩が姿を表す。

ウトロのオロンコ岩だ。今日は時間が無いのでここも立ち寄る事なく通り過ぎる。

峠に向かって走り知床のビジターセンターを左に曲がる。明るい林を潜るクネクネとした道を走ると、山間の谷を流れる川が眼下に見えて来る。小さな橋を渡りすぐに新緑の木々を抜けると明るい日差しの中短いストレートが表れた。スピードは余り出してはいなかったが、木の影の中から明るい日の光に目を細めスピードを緩めると、直線道路の遥か向こうの道の真ん中に木で出来た大きな看板が見えた。

まだ遠いその茶色い看板に何が書いてあるのか、薫にはまだ見えない。

(通行止め?!じゃあ無い?!)

普通、道路が通行止めの場合には事前に表示が或る筈だし、木の看板なのはおかしい。訝しんだ薫はさらにスピードを緩めながら看板に近づいて行く。

それがはっきり輪郭を表すとFZを止めた。周囲には車も人もいない。薫だけだ。

そして薫は気づいた。

それに通行止めなどの表示があるはずがない事を。

それに薫から見て左に頭が付いている事を。頭には小さな目と長く伸びた鼻が、頭の上には立派なツノが見える事を。

そしてそれは薫を見ながら、ゆっくりと動いた。左の方へ。

鹿だ。

牡鹿は薫にもFZの野太い排気音にも動じる事なく、左手の草地にノソノソと消えて行った。

(何であれが看板に見えちゃったんだろ?目、悪くなったのかしら?)


鹿看板の先の草原で、アスファルトの道路から右側に広めの林道が枝分かれしている。舗装道を道なりに進むと知床五湖だ。

薫はゆっくりと林道に入る。

昨日の話ではカムイワッカまでのダートは硬めで走りやすいらしい。FZでも行けると彼らは言っていたので、迷わず突き進む。

薫はダート走行に自信が無いので、FZの車重と自身の腕前を鑑みてゆっくり進む事にする。ここで転倒してバイクにも自分にもダメージがあるとシャレにならない。

林道は程なくして細くなり、木々の間を分け入って行く。段々と坂道になってくると、山肌を沿う様に進み始め、右手に、左手にと結構急な断崖になりだした。

基本林道にはガードレールや柵の類は無い。運転を誤れば車もバイクも真っ逆さまである。薫は舗装道のブラインドコーナーの先から対向車が来ないか、ヒヤヒヤしながらも最後のカーブの先に目的地を見つけた。

少し広くなった道に1台の赤い軽ワゴンが止まっている。他には誰もいない様で、本当にここが目的地なのか少し迷ったが、小さな橋の下の川の川底が白っぽく

なっている。どうやらここで正解の様だ。


薫はジャケットを脱ぎ、Gパンを脱ぎ中に履いていたショートパンツとTシャツ姿になる。川の中を歩く様なのでスポーツサンダルも履き川へ向かった。

いつもは橋の脇の川への入り口近くで、川歩き用の草鞋屋がいるらしいのだが今日はいない。妙に静かな気もするが、朝早いからだろうとそのまま川へ向かう。

薫は緩やかな坂一面を水が勢いよく流れる川の中に踏み出した。水量は有るが川となっている岩盤を薄く流れる感じで深さは余り無い。湯の滝とは言うが、それ程暖かくも無い。辺りに湯気は見えないが、微かに温泉の硫黄っぽい匂いがする。

それなりに川を登ると聞いていたので、薫は意を決して上流に向かうことにした。登り始めると所々深い所や岩を回り込んだり、崖の様な所を進まなければならず、間違ってないか不安にもなったが、しばらく進むと1組のカップルの姿が見えたので、その後を追う様に登ることにした。何個かの滝壺の様な池を見付け手で温度を確認したところ、上流に向かうにつれ段々温かくなって来た。

「おはようございます。」

一際大きな湯だまりでカップルに追いついてしまったので、声をかけてみる。

「おはようございます。おはやいですね。」

「はぁどうも。」

男性が挨拶を返して来たが、登るとスピードが速いのか、ここに来る時間帯が早いのか、判断出来ずに適当に頷いてしまった。

「初めて来たんですけど、ここが一番上なんですか?」

温泉と言うにはかなり緩い湯だまりの温度に、薫はカップルに尋ねた。

「もう一つ上に湯加減良いのが在りますよ。ただこの子がこれ以上登れないから、私達はここまでかな〜」

男性は湯だまりの脇の急な崖を指差しながら教えてくれる。これ以上上流に行くには湯だまりの上を横断して滝の脇を四つん這いで登らなくてはならなそうだ。転がり落ちれば大分痛そう、と言うかかなり危険だ。

「‥ありがとうございます。私はもうちょっと登ってみますね。」

少し迷ったがここまで来てこの緩いお湯に足だけ浸けて帰るのはリターンが少ない。薫は試しに登ってみることにした。

「無理しないでね。」

「気を付けて!」

「はい。石が落ちるかもしれないので、こちら側には来ないで下さいね。」

そう言うカップルに注意を促す。自分の我儘で他人に怪我をさせては申し訳ない。手を振り慎重に崖を登る。岩肌はゴツゴツしていてグリップが良さそうに見えるが表面が脆く砂利になって崩れ易い感じで、力を込めると滑りそうだ。薫は予想通り四つん這いで進まなくてはならなかった。

あくせく登り切ると下でカップルが拍手をしてくれた。ハラハラと見守ってくれた様だ。

「行って来ま〜す!」

元気に声を掛けて再び進むと、直ぐに三日月の様な形の滝壺が。触るとかなり暖かい。滝の方を見てみるが、流石にこれ以上は登れなさそうなので、ここが目的地で良い様だ。

早速荷物の入ったウエストポーチを外して足をつけてみる。走って登って緊張気味の足の筋肉がほぐれて行く様で癒される。この温度なら浸かっても大丈夫かな。薫は髪を後ろで纏めるとそのままの格好で湯の中に入った。やはり少し緩いものの自然の中の天然露天温泉!最高だ!


しかし落ち着かない。

貸し切り状態でこのロケーション。緩いせいもあってゆっくり浸かりたいところなのだが落ち着いていられない。その理由は薫の足が届かないほど深いせいだ。

ぐるぐる回ってみるもののどこにも底を触れない。やっと見つけた人一人がギリギリ立てる位置は湯だまりの中央だけだった。

薫は壁面にへばりついて暫し温まった。

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