十五話 暗闇の吐息

 あっ、これ俺死んだわ。死んでるやつだわ。

 いや、だって、今さっき刺されてるんだよ? 俺、ここで刺されたんだよ? それなのに血がついてないどころか傷もない、そしてなにより一つない。

 これはもう、確実に死んでるでしょ。

 大体、目の前に妹の笑顔。ああ、よかった、にぃもちゃんとわかってくれたんだね、みたいな感じのこの笑顔。どう考えてもぶすりとやられてるやつでしょ。

 逆にこれぶすりとされてなきゃ、なんでこんなに笑顔なのって話でしょ。

 まあ、意識が残ってるってことは頭のどこかで死んでない可能性を信じてる自分がいるからなんだろうけど。だから、死んだことに気づいていながら、死んだことに気づけてないという明らかな矛盾を抱えた俺が意識を保ち、その上でここにいるんだろう。

 そんなわけで、目の前の妹と俺の二人は硬直したまま時間は刻一刻と過ぎていく。

 どちらも動かない。

 ただ、妹のやさしい吐息だけが俺の肌をなでる。なでる? 感覚が、ある……?

 俺は死んでいて、それでいて死んでることにも気づいて、だけど俺は死んだことに気づけていないアホな幽霊へとなったはず。

 なのに感覚がある?

 いや、でもたしかどこかの本で、現世に干渉できる幽霊なるものがいる、とも見たな。それがポルターガイストなどの原因になってるんだっていう。

 あのときはくだらない宗教の本だとか、またアコギな霊能者が出てきたよとか思ってたっけ。

 どっちにしろ、あれは本当の話だったんだな。幽霊は現世に干渉できる。そういうことだったんだ。

 てことは、幽霊となった俺が、もし妹になにかしたとしてもバレないのでは?

 そう考えたら、透明人間になれたらどうする? みたいな状況がIfではなく現実に起きてるというわけだ。この状況、楽しむしかないだろう。

 そんなことを頭の中をぐるぐるさせながら考える。したいこと、やりたいことが無限の湧き水かのように溢れ出てくる。

『おお、神よ。私はついに楽園へと戻ることができました』そう叫んでやりたい。

 それほどまでに、俺は今アホなのである。

 だって、目の前にいる妹の顔は相変わらずの笑顔なのてありながら、少しずつ強張り始めてることに全く気づけていないのだから。

 まさしく、どアホである。

 それから妹は少し力を抜きでもしたのか、ギギッという音がどこからともなく鳴った。

 そして、妹が持ってたその包丁は、床にカタッと音をたて落ちる。そう、カタッと。

 その音で意識が現実に戻される。そう、死んだのだという現実に。

 そして、頭の中にふと流れてくる。

 妹のパンツ。

 そう、さっき見たそのパンツ。刹那に見たピンクのパンツ。真っ暗闇の中に閃いた一筋の光。

 それから俺はなにを思ったのかスカートに手を伸ばそうとして、ふと視線に気づく。

 妹は無表情よろしい顔をしながら俺を見ている。それこそ視線の正体。たぶん。


「にぃ、なにしようとしてるの?」


「えっ? 俺のことが見えてるのか?」


「暗闇だからってわからないと思ってたの? すでに暗闇に目が慣れてるからわかるよ」


「いやいや、そういうことじゃなくてさ、えっ? ほんとに俺のこと見えてんの?」


「だからそうだって言ってるでしょ? どうしたの? おかしいよ、にぃ」


 いや、おかしいのはどう考えてもお前だよと、言いたい気持ちはとりあえず抑え、混乱する頭の中を整理するところから始めることにする。

 まず、俺は死んだ。神は死んだみたいに言ってるが、とくにそれとは関係ない。

 そんなくだらない脱線に、個人的にツボりながらもとの整理に戻ることにする。

 とりあえず、俺はもう死んでいる。そうだとしたら、妹に俺が見えてるのはおかしい。

 いや、よく霊能者は幽霊と交信して云々って聞いたことあるし、そういうことなら見えてもおかしくない。

 つまり、妹は歌って踊れるアイドル声優であり、霊能者であったということだ。

 なんだそれ?

 まあ、そんな疑問はさておき、そういうことならそういうことなのだ。勝手に、最愛の兄が死んだ悲しみにより、急に霊能者として目覚めた、というそれっぽい話を妄想しておくことにする。


「そうか。俺が死んだ悲しみで……」


「いや、にぃはまだ死んでないでしょ。なに勝手に死んでるの」


「はっ?」


「えっ?」


 俺、死んでないの? どういうこと?

 とりあえず今の自分の姿を確認してみる。相変わらずの妹の制服。帰ってきてから変わってない。血は、たぶんついてない。暗くてよくわからない。

 そして、妹から届くほのかに湿り、生暖かい吐息。

 肌に感覚が残ってる? いや、それは宗教云々が正しいってことで……。

 いや、でももし死んでないのだとすれば、その宗教云々は正しいわけではない……?

 と、それから妹は電気がつけばわかるとかブツブツ言いながらスイッチへ。

 そして、閃光とともに部屋を眩しさが照らす。

 そして、暗闇に慣れきっていた目は焼きつくかのような衝撃が走る。

 実際は単に眩しっ! ぐらいなわけだけど、唐突に光が目に入ったことによってそんな補正がかかったということで。

 と、それから妹は俺のところまで戻ってくると落ちてる包丁を拾う。

 光に反射する包丁はどこか歪な形をしているのがわかる。

 というか──


「この包丁、偽物?」


「そうだよ。ほら、刺さったらヘコヘコいうやつ。にぃも知ってるでしょ? ビックリ刀。小さいころ一緒に遊んだじゃん」


 それじゃ、俺は死んでない……?


「な、なぁ、一回俺頬を思いっきりビンタしてくれ」


「えっ? もしかして、にぃってそういう趣味あったの?」


「いや、そうじゃないけど……」


「いや、大丈夫。私はにぃのことだったら丸々愛してあげられるから! だから、たとえにぃにどんな性癖が有ったって大丈夫だから。さっきまで妹の吐息に興奮してたのも大丈夫だから!」


「なに言っちゃってんの!?」


「それじゃ、いくね」


「おう」


 そうして俺の頬を妹のかわいい小さな手がすり抜けることはなく、思いっきりぶつかり、俺はなぜか身構えてなかっただけに吹っ飛ばされることになる。

 宗教云々に霊能者には幽霊に触れるなんて書いてあったなとか思い出したあたりで、いい加減その思考はやめることにする。

 だって、俺の頬は腫れ、炎症を起こしてるのを身をもって感じてる。ヒリヒリして普通に痛い。


「手ー痛ーい! もう、にぃビンタしなきゃよかった!」


「お前って手加減って知らねぇの?」


「思いっきりって言ったのにぃじゃん!」


 そうして、とりあえず俺は死んでないことが発覚するのだった。

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