ドMスクランブル(後編)

「ねぇ、今さらなんだけど、ほんとに大丈夫?」


「私のことはぜひお気になさらず! 最高ですわ!」


 キモい。思わずそう思ってしまった。

 現状がどうなってるのか? そんなのは簡単で、椅子があるのにも関わらず、俺は彼女の上に座っている。

 椅子があいてるのにも関わらず。

 訂正、椅子に座ってたのに、気づいたら俺は彼女に座ってた。

 彼女はどういう感じなのかというと、いわゆるよつん這いになっている。

 で、背中のところに俺が座ってると。

 それもこれも俺が命令したわけで、これが気づいたら起きてるわけないわけで。

 それでも、俺は現実逃避をやめられない。


 あのあと、リードを持ってきた彼女が言ったのは端的で、難易度としては最難関の大学を現役合格するより難しいことだった。

 それが、屋敷の中を散歩すること。それも、俺がリードを引っぱり、彼女は犬のように四つ足で、赤ちゃんのようにハイハイしながら。

 それがしたいと言ったのだ。

 誰かに見られたらどうするんだということで、現状こうなったと俺は記憶している。

 でも、俺の心はなんにもなかった。

 無に等しいほど、なんにも感じなかった。

 彼女はよつん這いになり、俺の体重を支え、苦痛と愉悦の表情を浮かべているのに。

 はぁはぁと息を漏らす彼女を見て、俺はただただ無だった。

 そんな状況からしばらくして、俺は立ち上がった。

 なんにも思えないまま。


「ど、どうしましたか、ご主人様?」


「キモい。てか、これ、私が楽しくない」


「えっ? その、どうされましたの? か、川和かわわさん」


「知らない。今日はごめん。私もう帰るよ」


「ほ、ほんとにどうされましたの!? わ、私、なにか嫌なことをしまして? それでしたらハッキリと──」


「ごめん。そうじゃないの。とにかく、今日は帰るよ。…………その、送ってもらえる?」


 帰る帰ると言ってて、途中で気づいた。

 俺はここから一人じゃ帰れない。


「わ、わかりましたわ。少し残念ですが、そうおっしゃられるなら、帰りの用意を致しますわね。少し待っててくださいな」


 そう言うと、彼女は悲しそうな顔をしながら部屋を出ていく。

 俺も少し可哀想なことをしたかななんて思ってしまう。

 けど、それでも、俺はこれが正しいことだと思ってる。

 俺は、俺だけは、やっぱり妹の側に少しでも長く居てあげたいから。

 妹にはずっと、幸せで居てもらいたいから。

 だから俺は、ニートになりたい。妹のために。


 そんなわけで、帰りの支度も整ったので、愛莉珠ありすと一緒に玄関へ向かった。


「お父様とお母様はどちらにいらっしゃいますか?」


 と、そんなことを愛莉珠ありすが使用人に聞いている。

 こないだも会ってないし、忙しいのだろう。


川和かわわさん。その、今日は突然家までお連れして申し訳ありませんわ」


「…………」


「それと、その、また明日」


「ありがとう。それじゃ、また明日。学校で」


 俺はそう言うと、車に乗り込む。程なくして、車は走り出した。

 運転手は知らない人だった。


「お嬢様となにかありましたか?」


「いえ、特には、ないです。ただ、少しだけ申し訳ないことをしたのかなって。楽しんでたところに水を差してしまったので」


「そうですか。ですが、そうですね。こういう話は私からするべきではないのかもしれませんが、お嬢様は中学の頃までイジメられてまして。最初は友達と呼べる人が一人だけいたのですが、結局その方もお嬢様の元から離れていきました。そして、お嬢様は気づいたら一人ぼっちでした」


 運転手はなにを思ったのか、そんなことを話しだした。

 なんで俺にそんな話をするのか、そんな疑問を感じながらも、それは聞けなかった。

 なんとなく、わかったから。


「それでもイジメに堪え、中学を卒業して、高校に進学したお嬢様が、高校の入学式の日に、帰宅して最初に発したのは、川和かわわさん、あなたのことでした。とっても声のかわいい子がいたと。お嬢様は元気に話しておりました。昨日のことのようによく覚えています」


 チラッと、ミラー越しにこっちを見た気がした。

 運転手が誰かは知らない。けど、どこか誰かに似てる気がした。

 声も聞き覚えがあった。


「そして、私は安心しました。高校ではイジメられてないのだと。元気なお嬢様、いえ、の姿を見られて、よかった。ですから川和かわわさん。これからも娘のこと、よろしくお願いします。少し変わった娘ではありますが……」


「ところで、愛莉珠ありすさんはどうしてイジメられるようになったんですか?」


「そればかりは教えられません。というより、私も知りません。本人に直接聞いてください」


 そうして、気がつけば自宅の直ぐ近くの交差点についていた。


「ここら辺で降ろしてください」


「かしこまりました」


 少しして、車は歩道に近寄って停まる。

 俺は、なんだか不思議な気分だった。

 なんだかポカポカした温かい気持ちで。こんなのは初めてで。

 それでも嫌な感じはしない。

 そしたら、自然と俺はこう言っていた。


「なんか、ありがとうございました」


「……? いえいえ。それでは、私はこれで失礼します」


 俺が車のドアを閉めると、すぐにどこか行ってしまう。

 空は紅く染まり、なんだかとても奇麗だった。


 家に帰ると、なんかセンチメンタルになってた気持ちをブチ壊す悪魔いもうとがお出迎えしてくれた。


「にぃ、おっそーいっ! 夜ごはん冷めるんですけどー」


「はわぁぁぁ、川和かわわちゃんこわいよぉー」


「ブチ殺すちゃうぞ?」


 全く、つれない妹てある。こんなにも本気でかわいいを演じているというのに。

 そして、ギリギリどうやらブチ殺すと言いたい自我が残ってしまっているようで。


「…………はぁ。とりあえず、夜ごはんにしよっか? お腹すいちゃったし」


「さすが俺の妹。物わかりがよくて美人さんとか、完璧っすわ」


 女裝したおれはいつものようにそう言ったのだった。

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