第8話 好きこそものの上手なれ
チャイムを押す。忍野さんが出てきたらこう言う。
「こんばんは忍野さん。先日来お借りしていたタッパーをお返しに上がりました。いえ、決して返し忘れていたのではないのです。カレーの汚れとはご存知のとおりなかなか落ちるものではありません。そこでせっかくご親切にカレーをおすそ分けしていただいたのですから、その容器はキレイにして返そうと、ええ、借りたときよりキレイにして返すべし、というのが祖父の遺言であったものですから、それを思い出して一度実家に戻り、高祖父の代から連綿と我が家に受け継がれている一子相伝の技によって精製された石鹸でですね、タッパーを洗ってきたのです。ピカピカにしてきました。それで返すのが今更になってしまったのであって、決して忘れていたとか、そういうことではないのです。そうなのです、残念ながらこの石鹸の精製術は代々長男に受け継がれるもので、次男坊である私は兄にすがるしかなく、自分で精製できればよかったのですがそうもいかず。しかも折り悪く兄がボディソープ作り修行に出ていてなかなか捕まらなかったのです。そういうわけでお返しするのが遅れました申し訳ございません」
僕は如何にして忍野さんと仲良くなるかを考えたり、手下の学部生を使って情報収集することにかまけたりしているうち、カレーをおすそ分けされたときのタッパーを返すのをすっかり忘れてしまっていたのだ。
ある日、うっかりカレールウを買い忘れた僕は急遽肉じゃがを作ったのだが、夕飯で食べた残りを適当な容器に移して冷蔵庫に入れようとした。
そのとき可愛らしい花がらのタッパーが出てきて、おやおや僕はこんな可愛らしい容器を持っていたかしらなどと思っていたらそれが忍野さんのタッパーだったのだ。
いっそ肉じゃがを入れておすそ分け返しするかという考えもよぎったがやめておいた。
タッパーを返し忘れていることに気がついたときには、カレーをおすそ分けされてから一ヶ月が経過し、5月になっていた。
その間「MO2作戦」(The operation of Making Oshino do Osusowake)は一切進展していない。実はキャンパス内で彼女を見かける機会はあったのだが、準備が不十分と判断して避けてしまっていた。
そもそもタッパーを返すという言わばファーストステップを踏んでいなかったのは痛恨と言わざるを得ない。
カレーのおすそ分けからタッパーの返却までの不自然な一ヶ月を埋めるべく、必死で考えたカバーストーリーを暗唱し、今、忍野さんの部屋の前に立っている。
チャイムを押す前に入念なシミュレーションをし、何度も頭の中で台本を繰り返し、言い訳に矛盾がないか最終確認をし、いざチャイムを押そうとしたその時!
「こんばんは!!」
「おおおおしのさん!!」
風に揺れる髪が夕日を反射して黄金色に見えた。
僕はこれまでの人生、黒髪至上主義者として生きてきたが案外明るい髪色もいいのではないか、そんな風に勘違いしてしまいそうな光景だった。
しかし彼女が優れた黒髪を持っているからこそ、これほど美しく夕日を投影できるのだろう。やっぱり黒髪が一番。
(私のこと、ちゃんと見てくださいよ)
「ハッ、しまった僕はまた同じ過ちを……」
「……? どうされました?」
心の中の低解像度忍野さんが、僕を戒める。またもや僕は忍野さんを見ているようで、忍野さんの黒髪を見ていた。黒髪に視線が縫い付けられていた。
「ああ、いえ……忍野さんがマジシャンじゃなくて良かったと思いまして」
「……?」
忍野さんに手品をされたら僕は決して種を見抜けないだろう。黒髪という最強のミスディレクションがある限り。
僕はなんとか揺れる黒髪から視線を引っ剥がして彼女の目を見た。
ぱっちり二重にくりくりの目が収まっている。彼女の虹彩は彼女の髪のように黒かった。日本人に一般的な茶色の瞳とは明らかに違う珍しい色だ。
やはり瞳にも見て取れるとおり彼女は天賦のメラニン色素を持っている。彼女の黒髪は……目を見ているようで僕はまた髪を見ていた。
気を取り直して視線を下げる。
彼女の鼻は高すぎず低すぎず。顔の中で他のパーツとよくバランスをとれた位置に配置されている。
口は一言でいえば可愛らしいものだ。たこ焼きとかたいやきを好んで食べていてほしい。
うん。かわいい。総合的に見て美少女顔だ。世の男が放っておきはしないだろう。ただ可愛いだけで終わってしまいそうなところ、黒髪黒目がよく引き締めている。黒髪最強。
「黒髪……」
「くろかみ……?」
あまりにも黒髪が素晴らしいのでつい口走っていた。
「くろかみ……ええと……桜島の東端に黒神町という町があるのですが、そこの腹五社神社の鳥居が噴火により埋没した鳥居、門柱として鹿児島県の天然記念物に指定されていることはご存知ですか?」
「いえ、寡聞にして知りませんでした」
「なら結構」
不思議そうに見る忍野さんに対して、僕はタッパーを差し出した。
「返すのが遅くなって申し訳ない。今日はこれを返しに来ました」
「……ああ!!先月の!!」
入念に考えた言い訳は吹き飛んでいた。
「ご丁寧にありがとうございます」
忍野さんはペコリと頭を下げた。ふわっと黒髪が……いやそれはもういいか。なぜかお礼を言われた。
「いやいや、お礼を言われるのはおかしいでしょう。僕はカレーをおすそ分けしていただいたばかりか、その容器を理由もなく借りっぱなしにしていたのですから。非難されることはあってもお礼を言われることではありません」
「確かにそうですね。私がお礼を言うのは少しおかしいかもです。うーん……」
なにやら忍野さんは腕を組んで考え始めた。うんうん唸っている。
何を考えているのか知らないが、僕は引き続き黒髪を見守りながら忍野さんが結論を出すのをまった。
「そうだ!!」
忍野さんは30秒ほどして突然ぱちんと両手を合わせた。
「つまり先程の私の行動はこういうわけです。私はカレーをおすそ分けしたことをすっかり忘れていました。よってタッパーが私の部屋から一つ失われたことも忘れていたのです。そのタッパーが思わぬ帰還を遂げたので嬉しくなって咄嗟にお礼をしたのです」
どうやら忍野さんは自分自身の咄嗟の行動の理由を考えていたらしかった。
「この喜びは例えば去年着た冬物のコートのポケットから思わず100円を見つけたときと同じような喜びです。日常のサプライズというやつです」
「なるほど」
忍野さんはうんうんと、今度は満足げに頷いている。
「つまり私は思いがけない小さな幸せをおすそ分けしたくなったのですね」
忍野さんはにっこり笑った。
「うっまぶしっ」
「え?」
「夕日が目に入りました」
「はあ……」
僕は半歩後ずさった。
「ところでカレーはどうでした?」
僕はもう半歩後ずさった。
「あ、えーと……」
「実は恥ずかしながら自分でカレーを作るのが初めてだったんです。それで分量がわからず冷蔵庫に入り切らないほど作ってしまって……」
「初めてですかあ……すごい才能をお持ちのようだ」
ある意味で。
「本当ですか!?」
「ええ、いままで食べたことのないようなものでしたよ」
嘘は言っていない。
「実はあのカレーを友達にも食べてもらったんですが、あまり口に合わなかったみたいなんです。私自身はかなり美味しいと思ってたんですが……」
「あー、まあねー。味の好みは人それぞれだからー」
可哀想な忍野さんの友人。
「ちょっと自信を失ってしまっていました。カレーを作るのはもっとお料理を勉強してからがいいかと思ってあれ以来カレーは作ってなかったんです」
「それは英断」
「え?」
「ああ、いや才能を感じたと言いましたが、かなり荒削りな感じではありましたからね」
「やっぱりそうなんですね……」
忍野さんは肩を落として悲しそうだ。世界平和のためにはこのままのほうが、つまり二度と忍野さんにはカレーを作らないでいてもらった方が世のためだという説もあるが……。
「カレーというのは一朝一夕で作っていいものではないんですよ」
「そ、そうだったんですね。私、そうとは知らず……」
いや、そんなわけないが。普通に気楽に作って食えばいいものだが。今の忍野さんにはちょっと控えてもらいたい。
「いえ、気を落とすことはないですよ。よくカレーを勉強して良いカレーを作れるようになればいいんです」
「はい! 頑張ります! 私カレー大好きなので」
カレーが大好きなのに激マズカレーを作ってしまうというのは悲しい。下手の横好きというのは悲劇だ。
本人は美味しいと思っていたというのは非常に恐ろしいが、恐ろしいので聞かなかったことにする。
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