執筆開始

 パソコンを開き、ワードファイルの文字数を設定。


「……ふぅ」


 仕事の執筆や配信よりも緊張していた。

 ひとまず、覚えていた仮タイトルを打ち込む。

 それだけで、胸がいっぱいになって泣きそうになる。


「って、悠長にしてる暇ないんだって」


 手を動かす。冒頭も覚えている。確かこんな感じ。


 久々の小説の執筆だった。

 けれど思ってた以上に進みが早い。

 いける、書けてる。


 1時間、そして2時間が過ぎる。

 それでも華子の集中は途切れなかった。


「海……に、クジラを見に行くんだ……」


 言葉は湧水のように次から次へと出てきた。もしかしたら7年前より、表現の幅が増えているかもしれない。

 だったらそれは。

 華子の頬を一筋、小さな水の玉が滑り落ちる。


「……なんだよ、今までの仕事、無駄じゃなかったんだ」


 服の袖で一気に拭い、気合を入れ直す。

 パソコンをタップする指に、力が入った。



 それから何時間経っただろうか。

 カーテンを少し持ち上げると、朝日が登っていた。人も起き出すくらいの時間かもしれない。


「あ、トイレ」


 思い出したように立ち上がると、腰に痛みが走った。


「くそ、まだ20代だっつの」


 悪態をつき、腰をさすりながら恨めしげに部屋を出る。

 そういえば喉も乾いていた。


(……自主的に動いたり、休憩取ったりしたほうが良さそうだな)


 こんなに長時間パソコンに向き合ったことがなかったため、生身の身体がここまで脆いとは誤算だった。

 無理が通用する10代とは違う。ご自愛しないと続かないことを学習する華子だった。



 ……書く。

 書く。


「っ。水、飲まないと……」


 机の上にあるのはもうストゼロではなく、ペットボトルの水に代わっている。



 ……書く。

 書く。


 睡眠は2時間で自動的に目が覚めた。

 続きを書きたくて仕方がなくなっている、そんな自分がおかしかった。


 トイレから戻るついでに、水を持って行こうと冷蔵庫を開けて、新しいタッパに気づいた。

 ひとつを取り出して開けると、いんげんの胡麻和えが入っていた。

 おかずはいろいろあったが、いんげんと納豆と生卵を取り出し、まとめて丼に入れて部屋に持ち込んだ。



 書く。

 書き続ける。


 休憩のとき以外、手は止まらない。

 SNSなんて見なくても、外に出て騒がなくても、なぜか気分は高揚し、充実していた。


 執筆が楽しくて仕方がなかった。

 反面、時間さえあればもっと書けるのに……という悔しさもなくはない。


 けれど今、そんなことを考えても仕方がない。

 与えられた時間は一週間以上もある。

 詰まったスケジュールをこじ開けてくれた、可波のおかげで得た時間だ。感謝はしても文句を言う筋合いはない。


 ……終わった後、怒涛の仕事で休日が潰れそうだけど。それについては文句を言おう。


 華子はくすりと笑って、再び目に強い光を宿す。



 書く。

 書く!


 寝るのも惜しい。だけど、睡眠をとるのととらないのとでは体力も思考力も差は歴然だ。

 酷使した目も限界で、まばたきするだけで痛くて涙が出てくる。

 短い時間でも、集中して睡眠を取った。


 冷蔵庫を開けると、新しいタッパが入っていた。

 華子が温めて食べるおかずに手をつけていなかったからか、冷たくても食べられるおかずが増えていた。

 ラップにくるんだ味噌のボールは、お湯を入れるだけで味噌汁になるらしい。


「そうそう、結局こういう楽なやつがいいんだよな。これ終わったら、あいつは専属の嫁にしてやろう。なんだよ専属の嫁って」


 ひとりでツッコんで、にへへと華子は笑う。

 ご飯に味噌玉を乗せて、お湯をそそぐ。

 はい、今日の餌ができました。



 書く。

 書き続ける!


 一日が終わるのが早い気がする。

 あと何日だろうか。

 余裕ぶっていた華子の顔に、焦りの色が見え始めた。



 書く。


 ……時間が足りない。



 書く。


 ここ、もっといい表現があるはず。

 そう思っても、睡眠不足で思考力が落ちてていた。明らかに、始めたころよりも言葉が出てこなくなっている。

 悔しさと焦りで、じわりと汗がにじむ。


「……後回ししよ」


 ひとまずマーカーを引いておき、あとでもう一度考える作戦に。


 マーカーは、すでに20を超えている。



 書く。


(……ヤバいかも)


 疲れから、頭にネガティブな言葉がちらつくことが増えた。


 泥酔のはすじゃない名義で出して、読んでくれる人はいるのだろうか。

 今までは、自分のファンが読むことがわかっていたから、肩の力を抜いて書けていた。PVだって余裕で稼げる。


 だけど今度はそうじゃない。

 完全実力主義で数字は取れるのか。

 学歴のない自分が、有名大学を出た人たちと並んで戦うなんて自信がない……。


 初めて、執筆の手が止まった。

 華子はぼんやりと、パソコンの真っ白な画面を眺めた。


 だって。


「やっぱ無意味だよ、こんなもの……」


 書き始めてからお腹の底に少しずつ溜まっていた不安を、大きな息とともに吐き出した。

 

 それから椅子を立ち、リビングに行く。

 ここ数カ月、ずっとにぎやかだったリビングに、今は誰もいない。


「可波に会いたい……」


 ぽつりと、思いがこぼれる。

 抱き締めて、もしゃもしゃ撫で回して欲しい。


「……もう疲れたよぉ」


 その場でうずくまる。


 やっぱり無理だった。

 仕事も中途半端なのに、長編小説なら書けるだなんて虫のいい話はなかったんだ。

 自分がクズなことは重々承知だ。

 そんな人間が、まともな人間らしいことをしようとしたってできるはずがない。


 だけど、それを身をもって知れただけ、意味はあったのかも。

 どんなに仕事が嫌でも、自分が社会で通用しているのは奇跡みたいなものなのだ。わがまま言わず、自分の役割を果たせってことか。


 すん、と鼻をすする。


「……ストゼロ飲も。あったっけ」


 立ち上がって冷蔵庫を開けて見回すと、タッパの上に小さな紙袋を見つけた。


「? お菓子かな」


 気軽に紙袋を開けて、目を見張る。


「……あっ」


 ころり。と手のひらに転がり出たシロイルカのストラップが、愛らしくお腹を見せていた。


《そろそろ華ちゃんがパワー切れるかと思ったので、お守りを入れておきます。あとちょっと。がんばれ!》


 手紙を読んで、罪悪感に涙腺が緩んだ。

 締め切りまでに仕上げなきゃという思いが強すぎて忘れていた。

 自分が書く理由を。


「そうだった。賞じゃなくて、あたし、カナミに読んでもらうために書くんだったね……」


 いちばん伝えたい人が、自分の文章を待ってくれている。

 それはすごく幸せなことだったのに。


 生まれたばかりの猫に触れるように、手のひらのシロイルカのストラップを優しく撫でた。


「書かなきゃ……」


 心に、小さくも熱い火がつく。


 もう一度冷蔵庫を開けた。ストゼロには目もくれず、水のペットボトルと惣菜パンをつかむと、仕事部屋に駆け込んだ。


 パソコンをタップすると、彼女を鼓舞するようにパッと画面が明るくなる。

 パンをくわえて、高速でタイピングを再開。


 7年前をなぞるだけではなく、今の自分の気持ちを乗せて――。




 ……。


 ……眠い。


 ……つらい。


 ……頭がふらつく。


 ……。


 ……もうダメかも。


 ……目が開かない。


 ……指が痛い件。


 ……お腹すいて気持ち悪い。


 ……泣きたいのに涙を流す気力もない。



 そもそも書き始めたときから万全ではなかった華子の身体は、限界を超えていた。


 さらに書き上げて終わりではなく、気が遠くなるような見直し作業がこれから残っている。

 眼球の痛みに耐えて、何度も何度も同じチャプターに目を走らせる。

 焦りを嘲笑うかのように、時間はじゃんじゃん溶けていく。



 次から次に……くそ、間に合うのこれ……。


――こんなのいたちごっこでしょ、無理だよ


 いや……間に合わせるっ。


――しばらく寝てないじゃん


 身体が壊れてもいい。だから、終わるまでは動いてっ。


――かわいそう。もう限界なのに


 これだけは絶対に、死んでも完成させる。


――なにマジになってんの、無駄だから


 隣でカナミが待ってくれてるからっ。


――は? 本当にあいつがおまえの駄文を読みたいって信じてるわけ?


 信じてるよ。カナミは喜んで読んでくれる、絶対。


――いい加減、現実見ろよ。クズがなに張り切っちゃってんの? 今までできなかったことができるはずないだろ!?


「そうだね。あたしはどうしようもなく救えないクズだわ」


 目の前がぼやける。

 意識がシャットダウンしそうなのを、セルフビンタで引き戻す。


「っ! ……けどさ、好きな人のためにやらなくて、あたしはいつ頑張るの?」


 手元にぽたりと赤い液体が落ちた。

 今ので鼻血が出たらしい。


 いらつきながら、拳で拭う。


「あたしはあいつのヒーローなの。体が無理? 時間がない? ……そんなの知るかよ。こんなときくらい、みっともなくても、無駄かもしれないけどっ、悪あがきしろよ!!」


 内側から湧き出すネガティブを、残り少ない気力で無理やり押さえ込む。


 キーボードの上に赤い血溜まりができるが、気に留めていられない。


「っ、天才、結野華子をなめんなぁぁっ!」



 カタカタカタカタ――。

 カタカタカタカタ、タンッ。



 そして……。


 最後の再確認マーカーが今、消えた――。

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