脱稿
「脱稿…………」
立ち上がって、ふらりとベッドに倒れ込んだ。
カーテンから漏れる朝日が眩しい。
最後の3日間はほぼ寝ていなかった。
28歳、お肌が心配。
小説は10万字強になった。
10日間……正確には9日間で頭の中におぼろげに置いていた、7年前のプロットを組み立て直し、どうにか形にした。
ざっとだけど見直しもしたし、一応人に見せれられるレベルにはなっている……はずだ。
「うー、でも恥ずかしいなぁ」
書いてるときはテンションが上がっていたけど、冷静になってから「こんなもの、本当に見せていいのだろうか」という羞恥心がわいてきた。
久しぶりに書いた普通の小説。しかも恋愛小説ときた。自分の妄想を詰め込んだ、甘々仕立てのフルコースとなっております。……大丈夫か自分。
「とりあえず風呂入って、着替えて……。あ、あいつパソコン持ってないんだった。擦り出さなきゃ。紙足りるかな?」
作業部屋の端に置いてあるコピー機のスイッチを入れてみる。
久しぶりに使ったが、元気にご存命だった。
プリントしている間に風呂に入り、身なりを整える。カラコンを入れてバチッとメイクもした。下着もかわいいやつ。
「……深い意味はないからね!?」
鏡の中の、わずかに赤い顔の自分に言い訳している。
準備を終えた華子は胸に原稿の束を抱え、ドキドキしながら玄関を出た。
隣の部屋の前に立って、ちょっと深呼吸する。
緊張する。
馬という文字を書いて、飲めばいいんだっけ? ああ、もう!
「神様っ」
インターフォンを押して、華子は後ろに下がった。
目を閉じて、玄関が開くのを待つ。
……。
…………。
………………。
だが、待っても待っても可波が出てくる気配はない。
「あいつ寝てるのか?」
華子は首をかしげ、玄関前に立ち尽くす。
こうなったら、連打攻撃である。
ピンポンピンポンピンポンピンポン
「おーい! カナミー! 起きて! 書ーいーたーよー!!」
「あああっ、泥酔先生っ!!」
「ん? うげっ!」
声をかけてきた相手に対して、華子は苦い表情を浮かべた。
エレベーターホールから走ってくるのは、事務所のマネージャー君取。久しぶりの対面。めちゃくちゃ怒っている。
「うげ! じゃないですから! もー、スマホもインターフォンもずっと切ってたでしょ!?」
「あ、うん、ちょっと集中したくて……」
目をそらすと、君取が華子の持っている原稿に気づいた。
「あれっ? なんすかその紙の束。なんで急にアナログなことしてんすか」
「これはその……そうそう、カナミ! あいつ出てこないんだけど、一緒に呼んでくれない? 大学早い日なのかな?」
「ドトーくんならもういないっすよ」
「……え?」
あまりにも軽い君取の言葉に、どくん、と心臓がうずく。
しかし、そんなはずはない。
「なにその冗談」
「冗談じゃないっす。彼、事務所やめたんで」
「は? 聞いてない!! いつ?」
「解雇は11月15日付けですね」
「え……」
華子は顔をしかめる。
公募に出そうと話したのは、11月20日。
だとすると、その日にはすでに可波はバイト契約が切れていたことになる。
「なんで」
「えっと、それは……」
「もしかして、あたしが書かなかったから?」
肯定はしなかったが、気まずそうに君取が視線をそらした。
だって可波は、なにも言わなかったのだ。
華子が書かないせいでやめることになるなんて、ただの一言も。
ガチでクビがかかってるなら、華子だって嫌でも吐いてでも書いただろう。
だけど可波は、自分のために無理をさせたくなくて言わなかった。
(なんであいつ、自分のピンチは相談しないの? 意味わかんないんだけど!)
混乱の中、徐々に怒りが込み上げる。
胸に抱いた小説は、可波に読んでもらうために死に物ぐるいで書いたのだから。いなければ、意味がない。
「だって、約束したの、あたしの原稿を読むんだって! いちばんの読者になるんだって! 自分で29日に締め切りだって言ったんだよ? いなくなるなんてひどくない!?」
「え、何言ってるんですか、泥酔先生」
君取が困惑した様子で顔を向けた。
「だって、
「………………あ」
華子の顔から一気に血の気が引いた。
原稿が腕の中からスローモーションのように滑り落ちる。
「ああ、ちょっと!!」
這いつくばって原稿を拾い集めながら、君取は笑い話のように続ける。
「また日にち間違えたんすか〜?w ドトーくんには29日中に出て行くように伝えてるんで、確かに昨日まではいたと思いますよ。現に昨日も、俺らがマンションに入ってくるの邪魔されたし。給料が発生しないっていってんのに、よくやりますよねぇ」
「違う……あたしってば、本当にどうしようもな……」
華子は誰に言うでもなくつぶやいて、手で顔を覆った。
あふれる涙を抑えようとするが、あとからあとから湧き出して止まらない。
「どしたんすか、泥酔先生!?」
「いやあああああああああああああああああああっ!!」
とうとう原稿の上に座り込んで、華子は泣き叫んだ。
公募の小説は、可波との約束通り、全身全霊を捧げて期限内に仕上げた。
でもそれは華子のルールの。
『そんなの、翌日の朝に出しとけばいいんだよw』
締切日の翌朝、
それは、可波にも何度も言われていたことだったのに。
長年にわたり染み付いてしまった悪癖が、こんな大事な日にも無意識に出てしまったのだ。
可波は華子を信じて29日の夜中ギリギリまで待っていたのだろう。その期待や信頼をすべて裏切ってしまったのだと、華子はようやく気づいた。
「カナミにっ、あやまりたい……。どこ、行ったの?」
「知らないですよ……」
「大学は!?」
「聞いてないです」
「なんで!?」
「用事があるなら、メッセすればいいじゃないすか」
「あ、そっか……って交換してないんだった。っ、でもキミドリは連絡取ってたよね?」
「ウェイウェイから渡した社用携帯のことですか? 返してもらったんで、プライベートのは知らないっす」
「もう、役立たずっ!!」
「えー、ひどいなぁ。八つ当たりっすか?」
八つ当たりで、全部自分が悪いだなんて、重々承知だ。
こんなことなら意地を張らずに、メッセの交換をしておけば良かった。
もっと可波の話を聞けば良かった。
ほとんど毎日一緒にいたのに。
それが当たり前で、ずっと続くように錯覚していた。
やっと好きって言えたのに。
全て、自分の傲慢さが招いた失態だ。
「泥酔先生、連絡できていなかったけど、先生も今日ここ引き払いますよ。もうちょっとしたら業者が来ますんで」
「はあ!?」
「事務所の近くに引っ越してもらいます。そこで先生の仕事を管理させてもらいますから」
「いやなにそれ!? 聞いてないっ」
「そりゃ、先生が連絡全部切ってましたから?」
「だって、え、だってそれはっ!!」
家を離れてしまうと、可波が華子に会いに来るのも難しくなってしまう。
それにSNSをしてない可波を、華子から見つけることもできない。
(これって、あたしが今までテキトーなことしてた罰じゃん――)
もう全てが手遅れだった。
一気に身体から力が抜けて、華子はその場に倒れた。
もう全部、どうでもいい。
読んでくれる人を失ったそんな小説も、もういらない。
すべての気力が失われ、睡眠不足が彼女の意識をどこかに連れていく。
「泥酔のはす先生。休んでいた分、キリキリ働いてもらいますからね」
君取の声が、遠い――。
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