僕はきみの夢を諦めない
玄関を出て、到着したエレベーターに乗り込む。
「カナミ! どこ行く気!?」
追いかけてくる声を無視してエレベーターを閉め、1階を押す。
そしてエントランスから雨の中を飛び出した。
裏手に回ってマンションを見上げる。
華子の部屋を確認して、真下へと走った。
上階からばら撒いた紙の切れ端は、駐車場に広範囲で散らばっていた。
けれど雨が幸いし、落ちた紙は風で飛ぶことなく、真下に集中していた。
不幸なのは回収に時間をかけるほど、紙が水分を吸って読めなくなるということだ。
「やめてよ! ちょっと!」
遅れて降りてきた華子が走ってきた。
ずぶ濡れで紙を拾い集める可波を傘の下に入れる。
「なにしてんの、そういうのが迷惑なんだってば!」
パーカのフードを引っ張る彼女の手を振り払って、可波は振り返る。
「価値、あるよ」
「っ!」
「誰も求めてない? 誰も見向きもしない? そんなのは知らないけど、僕は読みたい」
「おもしろくないから、あたしの
「それを、なんで華ちゃんが決めちゃうんだよ!」
可波にしては大きな声で、華子はビクッと震えて息を詰めた。
「華ちゃんが心を騙して書いた嘘より! 読まれたくないって思う文章より! 心を乗せてる文章を僕は読みたいし、書いて欲しいよ!」
「ねえ、なんで……」
華子の漆黒の瞳が、ゆらりと揺れる。
「どうして……カナミが、そんな顔するのよ」
鏡がないから正確なことはわからないが、華子の表情を見るとろくな顔をしていないのだろう。
カッと熱くなり、可波はパーカの袖で頬をぬぐって顔を伏せた。
砂が肌を汚す。
「自分を悪く言わないで……。そんなときの華ちゃん、いつも苦しそうだよ」
雨が体温を奪って、可波はぶるりと震えた。
まだすべての紙を拾い切れていないことを思い出す。
再び地面に視線を落として、手を伸ばした。
「いや、だからもういいって。やめて、カナミ。風邪ひくからっ」
拾う紙はどれもよくふやけていた。
水溜りの中に落ちたものも、手を突っ込んで拾う。
諦めない。
彼女が紡ぐ優しい言葉を、冷たい場所から救いたかった。
「華ちゃんが諦めても僕は諦めない。何度だって書けって言うよ。華ちゃんが嫌がっても、華ちゃんに嫌われても、絶対に」
華子がさしてくれる傘は意味をなさず、可波は横降りの雨に襲われる。
そうしているうちに、半分以上は回収できた。
あとは植栽に引っかかっているものだけ。可波は木の下へと走る。
「もうやだ! どうしてだよ。本人がもう興味ないって、やらないって言ってるじゃん!」
「華ちゃんは、そうした方がいいから」
「なにそれ、答えになってない!」
可波は水撒き用のホースリールに足をかけた。
プラスチックのリールも、おしゃれな植栽も、可波の体重を支えるほど丈夫ではない。
すぐに不安定な足場がグラグラと揺れた。
「カナミ、もうやめて!!」
「……あ」
転びそうになった可波の後ろから、華子がしがみついた。
ホースリールだけ横転し、二人は植栽の下で立ち尽くす。
「無茶なことはやめてよ……」
いつの間にか傘を手放していた華子も、しっかりと雨に打たれていた。
「書く……からぁ……」
涙と雨でぐちゃぐちゃになった顔で。
「だから、もう拾わなくていいっ!」
懇願だった。
それでも可波は諦めきれず、視線は植栽の上へと向けていた。
「でも、これがないと……」
「もう拾っても、そんなに濡れていたら文字なんて読めないんだってば!!」
「っ!」
本当は拾っている途中で気づいていた。
けれど、見ないフリをしていた。
努力は必ず報われる――くだらない幻想にすがるしかなかった。
「意味、ないんだよ……カナミ」
「……っうう」
現実を突きつけられた可波は、小さくうめいてへたり込んだ。
どうあがいても、状況は最悪だった。
乾かしたとしても文字は戻らないだろう。
雨に打たれた時点で、結末は決まっていたのだ。
「ごめん、最低だ。僕が考えなしにあんなこと言ったせいで……。華ちゃんの大事な資料を、全部、ダメにした……っ」
土下座するようにうずくまり、みっともなく嗚咽を漏らす可波のそばに、華子はしゃがみ込んで抱きしめた。
「なんでよ……。あたしのために、あんたが落ち込むことないから」
抱きしめたまま、華子は可波の背中を優しく撫でる。
可波はゆっくりと顔を上げた。
彩度の低い世界。
雨で髪の毛が張り付き、すっかり幼い素顔をさらけ出した華子と顔を突き合わせる。
「でも、僕が、僕がいたからこうなって。それに、もし僕が“華ちゃん”呼びしていることも、負担になってたなら、僕は……」
許して欲しいとは望まない。
償えきれるなんて思っていない。
彼女のためならなんだってするつもりだし、何度だって頭を下げるだろう。
「もういいって……」
けれど、全てを捧げても、結局解決につながることが一
「ごめん……」
「うるさいな、そろそろ黙って」
「でも――っ!?」
乱暴に襟元を掴まれて、殴られると思った可波は目をつむった。
だけど――。
痛みの代わりに、強く唇を塞がれる。
「っ!」
喋ろうと口を開けた瞬間、舌が無理やりねじ込まれた。
冷えた唇からは考えられないくらいの口内の温かさと荒々しさに、息を忘れて意識が飛びそうになる。
――。
近くで雷が落ちたのをきっかけに目を開くと、華子の顔が離れた。
「……あのさぁ、あたしを誰だと思ってんの?」
ぽたりぽたりと、前髪から雫を垂らして。
華子がゆっくりと顔を上げる。
「あんなの、全て頭に入ってるんですけど。――天才をなめないでくれる?」
轟音を響かせ、また雷が近くに落ちた。
不安定な色の空にチカチカ光る雷を背負い、悪役のように
ああ。
この子はきっと無意識に。
誰かのためのエンターテイナーであろうと身体が動くのだろう。
それが悲しいほどカッコよくて。
華子のままでいて欲しいと願いつつも、泥酔のはすはまぎれもなく彼女の一部で。華子と同じくらい大切にすべき、もうひとりの彼女の姿だ。
「名前で呼ばれるの、嫌じゃない。てかさっき“のはす”って呼ばれて悲しかったの、自分でも驚いた。だったらあたし、のはすとも華子とも仲良くやってみるから! だからカナミ、これからも……っ」
気丈に振る舞っていた華子が、ついに言葉を詰まらせた。
たまらなくなって、可波の目からはふたたび涙があふれる。
それでおろおろし始めた華子がかわいくて、飛びつくように抱き締めた。
愛おしさで、胸が詰まって破裂しそう。
「ねえ僕、華ちゃんのことが大好きだ!!」
「っ!? あっ…………たし、も……」
遠慮がちに背中に回された手に、力が込められた。
冷たい雨の中で、抱き合った心臓の部分から、じんわりと身体中に温かさが広がっていく。
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